嵐のピクニック (講談社文庫)

本谷有希子



 ピアノの先生って、もっと優雅な暮らしをしてるのかと思ってた。別に今なら、もともと先生になることが一番の夢じゃなくて、音大を出たのにプロの音楽家になれるほどの実力もなかったから、自宅で教室を開いてたんだろう、って想像ぐらいはしてあげられる。

 でも当時の私はまだ中学生で、親の自己満足のために無理やり行かされていたピアノ教室の先生に対してわずかな想像力を働かせてあげるという発想さえなかったのだ。

 私は思春期で、自分のために溢れ出てくるあらゆる想像を爆発させないようにするだけで精一杯だった。ちょうどサツキとつるんで、制服のスカートがどんどん短くなり始めていた頃だ。担任の教師をどうしても人として好きになれなくて、二人で授業をさぼったり、呼び出された職員室でも堂々と来客用のソファに座ったり、化粧に手を出したり、早い話が、調子に乗っていた頃の話だ。サツキといるってだけで訳の分からない魔法にかかって、大人という大人全員を見くびる力を持っていた頃。サツキだって私と出会うまでは大人しくて冴えない子だった。

 月謝を貰っていたとは言え、私みたいな学ぶ気のない女子中学生に毎週、鍵盤の触り方を教えてあげなければならなかったなんて、先生には気の毒なことをしたと思う。たぶんあの人はまだ三十代半ばくらいだったけど、あの頃の私にしてみれば充分すぎるほど大人で、自分と同じ一人の人間だとは到底考えられなかったのだ。こっちが賃金を払ってる、この人は私に雇われてる、そんなふうに心のどこかじゃ思っていた。

 私は幼稚園の年長の頃からピアノを習わされていて、その向上心のない態度がどこでも問題になっていた。いつも先生のほうから出入り禁止を言い渡されて、四つもいろんな教室を転々とした。私はピアノなんて何が楽しいのか分からなかったし、自分に才能は一つもないととっくに知っていたけど、一人娘が休日に楽器をたしなむのが夢だった両親は諦めなかった。四つの教室のうちの三つは駅前のビルに入っている大手のピアノスクールのチケット制のレッスンで、最後の最後に流れ着いたところが、先生の教室だったのだ。

 人の自宅に通うというのは変な感じだった。教室の看板が表札と並んで一応小さく出ているものの、玄関を開けると動物と夕食の匂いがしたし、そそくさと階段をあがっていくセーラー服を着た女の子の後ろ姿も見えた。

 たらい回しにされてとうとう大手の教室へは通えなくなった子供に救いの手を差しのべるかのように、先生は初対面の私に優しく微笑ほほえんだ。これもあとから知ったことだけど、車で三十分以上かかるこの教室を両親が選んだ理由は、先生がどんな子にも根気よくピアノを優しく教えるという評判を聞きつけたから、ということだった。見るからに人のよさそうな先生。でも私はその親受けのいい笑顔が気に入らなかった。その頃の私は、少しひねくれすぎていたんだと思う。自分から教室に通わなくなるんじゃなく、教室のほうが私に音を上げて破門するように仕向けることに何より夢中だった。馬鹿だったのだ。優しい大人が、呆れて途方にくれ、手のひらを返したように自分みたいな子供を見離す瞬間が来ることに、快感を覚えていたなんて。

 母親が「じゃあまた四十分後に」と玄関で挨拶を済ませて車を発進させたあと、

「ピアノは何年習ってたの?」

 先生が家へ上がるように促してそう聞いたので、私は「九年です」と使い古されたスリッパに足を入れながら答えた。テキストはブルグミュラーかソナチネアルバムか、と尋ねるので、バイエルだと即答した。先生は一瞬驚いたような顔をしたけど、私は何も知らぬふりをした。前の先生のところでは「こんなに習ってまだ入門編のバイエルなんて、月謝の無駄ですからお辞めになったほうがいいのでは」とはっきり三行半を叩き付けられていたから、ここではどんな反応が返ってくるのか興味があったのだ。バイエルなんて本来なら小学校の低学年で、みんなさっさと終わらせている。自分の家の客間とあまり変わらないような部屋に通されて、とりあえず最後に習ったところを弾いてみて、とお願いされたので、私は楽譜を広げて一番始めの音符をド、レ、ミ、と口に出して確認して、鍵盤にできる限りゆっくり指を置いた。どれだけ反抗的で出来の悪い人間が来たのか、これで伝わるはずだった。前の先生なんて親がいなくなった途端、あからさまに険しい顔つきになっていたのだ。でもこの人は、「音符が読めるようになるところから練習しないとね」と、人の良さそうな笑顔を絶やさなかった。

 先生の自宅は下町の庶民的な一軒家だったせいで、私はいつも教室に行くというより友達の家に遊びに行く気分だった。玄関を上がってすぐのところにある八畳ほどの洋間の真ん中に、不釣り合いなほど大きなグランドピアノが置かれていた。音楽室にあるものより二回り以上も大きいそのピアノは、テレビのコンサート中継で見るようなピアニストが弾く、天井の部分が半分斜めに開いているものだった。ガラス戸が狭い庭に面していて、側にはとう製の小さな本棚があった。前の子がまだレッスンしている間、私はその本棚に並べられた児童向けの『かいけつゾロリ』シリーズをいつも制服のまま寝そべりながら読んでいた。

「あっちゃん」と何度も名前を呼ばれてから起き上がり、一週間前に「練習して来てね」と言われたっきり、そのままのテキストをバッグから取り出す。

 先週のレッスン全部を費やしてせっかく教えてもらったところを一切合切忘れているので、またト音記号の隣の音符をド、レ、ミと数えるところからやり直しだ。「今度こそ練習してきてね」と何度も念を押され、そのたびに「はあい」と返事だけは素直にするけど、絶対に家のピアノには指一本触れなかった。

 先生は最初こそ噂通り根気よく教えていたけど、私が段々と大胆に弾けないことをアピールするようになったせいで、そのうち私が来るたびに少しずつ顔が曇るようになった。先生は決して怒らなかったし、破門したりしなかった。だけど、どれだけ熱意を注がれても私には届かなかったのだ。私は、ピアニストを諦めた先生のささやかな夢を自分が踏みにじっているという空気に、うすうす気づいていた。自分は無力感を突き付ける存在だということも、来るたびに弱々しくなる先生の笑顔を見れば分かった。私のスカートの短さや髪の毛の色が目に余るということで、どこかの親が子供をやめさせた、という噂も聞いた。

 サツキが高校生の彼氏を作って、私もその友達とみんなで遊ぶようになって、自分たちがますます一番楽しい存在だと思っていた頃だった。

 ある日、私がいつものようにお菓子の油がついたままのギトギトした指で、耳障りな音を鳴らしていたら、先生が立ち上がって小さな筆箱から一本の鉛筆を取り出した。

 何に使うんだろうと横目で見ていると、先生は「あっちゃんは鍵盤を触るとき、手首がどうしても下がってしまうからね」と言って、その鉛筆の先端を鍵盤に触れている私の手首のすぐ下まで近づけた。

 ぎょっとしたけど、あまりにも自然で何も聞けなかった。私のほうに体を向けた先生が曲を弾き続けるように指示したので、私は楽譜を見ることしか許されなかった。鍵盤を押すたび鉛筆の先がときどき左手の手首にかすって、その芯が鋭く削られているということだけが分かった。音を外しそうになると、芯が微かに血管の近くに食い込むので、震えそうになる指を私は懸命に隠した。先生が一体どんなつもりでその新しいレッスンを思いついたのか、他の子にもこんなことをしているのか、その気になれば私の手首にその芯を突き立てることができるか、聞きたいことは山ほどあった。でもその頃の先生からはもうとっくに笑顔が失われていて、話しかけられるような雰囲気じゃなかったのだ。私は初めて、この申し訳程度に防音された部屋には私と先生しかいないんだと気づいた。自分は子供で、息が吹きかかりそうなほど耳のすぐ側に、顔を近づけているこの女の人は大人なんだ、ということを思い出した。

 私は九年間で初めて真剣にピアノを弾いた。神経が研ぎ澄まされたせいなのか、一つも読めない音符はなかった。全神経を集中させた指も驚くほど動いた。今まで五分以上かけていた曲がメトロノームを追い越して、あっという間に終わり、私は緊張で息を弾ませながら先生のほうをそろそろと見た。先生は久しぶりに薄く微笑んでいて、

「レッスンの効果あったね」

 と言った。その日のレッスンはそれでおしまいだった。あとにも先にも、先生が鉛筆を取り出したのは、あの一度だけだった。

 そのことがあってから、なぜか私はサツキと一緒にいても魔法にかからなくなった。担任を馬鹿にする気が起きなかったし、職員室に呼び出されて、誰も見てない隙に来客用のソファでめちゃくちゃに飛び跳ねようとサツキに笑いながら囁かれても、なんでそんなことがあんなにも楽しかったのか分からなくなってしまった。

 サツキはそんな私の変化を見抜いて「あっちゃん、つまんなくなったね」と言い続けたけど、どうすることもできなかった。そのうちサツキは高校生の彼氏と別れ、運命的出会いだったという大学生の彼氏を作って、ついでに子供も作って学校に来なくなった。一緒にいる相手がいなくなった私は週二回ほど、埃を被りっぱなしだった家のピアノの蓋を開けて鍵盤に触るようになった。部活は帰宅部だったから、練習は三回に増えて四回になって、ほぼ毎日夕食前に弾くようになった。九年の経験はそれでも知らないうちに音楽の力を授けていたみたいで、本気を出した私はあれだけ進まなかったのにあっという間に【バイエル】を卒業して、【ブルグミュラー25の練習曲】もクリアして、すごい勢いで【ソナチネアルバム】二冊を終わらせ、【ソナタアルバム】まで突き進んだ。私の指はもう課題曲なら百九十六曲は弾けるということだった。普通、バイエルを一年半で終わらせていなければもう成長することはないと言われているのに。とうの勢いだった。

 でも、私がもうすぐ二百曲目をマスターし終える目前に、先生は教室をやめてしまった。旦那さんと離婚することになったのだ。私は何にも知らされてなかったが、先生が自宅で教室を開いていたのは、痴呆で寝たきりのお義母さんの介護をしていたからだった。先生はどうしても子供にピアノを教えたかったらしい。でも自宅に知らない人間が出入りすることのストレスを旦那さんから責められ続け、思春期だった娘まで先生に辛くあたるようになった。どうやら私の手首に鉛筆を突き立てたのは、この頃のようだった。問題児だった私の改心も、疲れ切った先生の心にはもうなんの癒しももたらさなかったのだ。お義母さんの痴呆がいよいよひどくなって、長年の介護生活に疲れきった先生は、ある晩とうとう、グランドピアノの中に小さなお義母さんを入れると蓋をして閉じ込め、半日ものあいだ放置した。旦那さんがお義母さんを助け出したとき、蓋の上にはバイエルなど家中のテキストが重しとして載せてあったそうだ。

 先生がいなくなったあとも、娘に才能の片鱗を感じたうちの母親は、もっと月謝が高くてしっかりした別の教室に私を通わせることにした。でももう快進撃は続かなかった。意欲を失った私は練習しなくなり、指はあっという間に動かなくなり、楽譜も読めなくなった。ヘ音記号なんて見るだけで吐きそうになった。学校でおもしろくないことがあるたびに、私も先生と同じようにお前らをピアノの中にぶち込んでやろうか、と心の中で毒づくようになった。すぐにその教室から追い出され、ヤケになった私は、サツキに紹介してもらった男の子と付き合って、一切の勉強をせずに受験を迎え、県で一番馬鹿な高校にも入れず、十七のときに子供ができた。怒り狂った親に勘当同然で追い出され、しばらくして実家に荷物を取りにいかせてもらえることになった。未練があるような物などなかったけど、私が迷ったのは、ピアノの上に置いてあった習得しかけのソナタアルバムを一緒に持っていくかどうかだった。

 今だってもうすぐこの指で二百曲弾けたのだと思うと、惜しくなるときがある。サツキは運命的に出会った旦那に借金と隠し子が発覚して、なんであんなやつを好きになったのか分からないと会うたび言っている。

 私はこないだ、お腹の子供が私をピアノに閉じ込めるところを想像したあと、自分もお腹に子供を閉じ込めていることに気付いた。サツキだって何かに閉じ込められている。誰だって自分が今、ピアノの中なのか外なのか分からないまま生きているのだろう。

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