嵐のピクニック (講談社文庫)

本谷有希子



 カーテンが膨らんでいるのがどうしても気になって、会議の間中、そわそわしていた。

 みんな気にならないのだろうか。あんなにも不自然に窓の隅に溜められている黄緑色のカーテンのこと。どれだけヒダがたっぷり作られていたって、あんなふうには膨らまない。コの字型に並べられた席の中で、私だけが膨らみのちょうど正面に座っていた。忘れようと思って何度意識を会議に戻しても、顔をあげるたびカーテンが視界に入って、とてもじゃないけど部下の企画を集中して聞く気持ちにはなれなかった。

 言ってみようか。冗談めかして「ねえ、あそこに誰か入ってるよ」って。でも普段そういうことを言う人間として認知されていないから、どう切り出していいか分からない。それに今日は私にとっても、大事な会議なのだ。大きな電話会社から広告の依頼を、半年以上接待した末に取ってきた。人目を引きつけて話題になるようなパフォーマンスをしてほしい、というクライアントの希望に、絶対に応えてみせます、と自分の首をかけて誓ってしまった。集中しなくちゃ。部下たちは全員私より歳下の男ばかりだから、もしもあれがただのなんでもないカーテンの膨らみだった場合、論理的思考に欠けている上司だと、彼らが私をなめてかかるきっかけに繫がるかもしれない。男顔負けに仕事をしていても、なんだかんだ女性なんだと言われてしまうかもしれない。

 会議室は広かった。他の部屋が押さえられなかったから、結局四十人は入ることのできる一階の大会議室で打ち合わせることになったのだ。私の座っている位置から窓際まで、長机四つは並べられる距離にあった。だからますます確信が持てなくて、私は会議の司会をしながら目をすぼめたり開いたりしてこっそりカーテンを観察し続けていた。

 一人目の部下が意見を出し終えて、私は手短かに「なるほどね」と呟いた。「悪くないけど、それじゃあまりにも普通って感じよね。じゃあ次の人」

 二人目の部下が立って企画を説明し始めると、私の意識はあっという間にカーテンに引き戻された。膨らんでいるように見えるけど、近くにいけばそんなこともないんだろうか。徹夜をしすぎて、幻覚が見えているだけってこともあり得る。それに─そうだ、それに私には小さい頃から恐がりなところがある。点が三つ集まるとそれが二つの目と口にしか思えなくなって、なんでも人の顔に見えてしまう【シミュラクラ現象】の起こる率が人よりずっと高いのだ。ハンガーにかけてあるスーツの皺だって三つ揃えば人の顔に見えるし、木目なんて三秒眺めるのが限界だ。シミュラクラ現象というきちんとした名前があると知ったのは最近のこと。たまたまクイズ番組を観ていたら問題に出て来たのだ。〝心霊写真などでよくみられる、点が三つ集まると、人の顔だと認識してしまう現象は何?〟

 だからきっとあれもそう。【カーテン膨らみ現象】。納得しかけたとき、膨らみが動いたような気がして、私は一気に頭の中が真っ白になってしまった。ねえ、あそこに絶対に誰か入ってる。どうしてだか分からないけど、カーテンの中でじっとしてる。私は冷静になろうとペットボトルの水に手を伸ばした。上司という立場でやっと悲鳴を堪えていたけど、でもやっぱりどこかで自分の見ているものが信じられない気持ちでいっぱいだった。だって訳が分からない。犯罪者? 素っ裸の人間? ねえ、何あれ。なんなのあれ。

 二人目の部下が座ったので、私は「すごく興味深いわね」とペットボトルの蓋を無意味に撫でくり回しながら頷いた。一瞬変な沈黙が生まれたのでおかしいと思われたんじゃないかと心配になったけど、すぐに部下同士が何かを話し始めてくれたお陰で、私も冷静さを取り戻した。もう少しだけ様子を見てもいいかもしれない。もしもの場合でも、私が一瞬の迷いもなく避難指示を出せば、部下たちもみんなドアから逃げられる距離のはずだ。かつに口に出す前に、あらゆる可能性を探っておきたくなった。

「じゃあ次の人、企画を出しなさい」

 たとえば、あれは私の幻覚なのかもしれなかった。カーテンには私と彼が結婚して一緒に住むはずだった頃、インテリアショップに二人で出掛けて眺めた思い出がある。先月、結婚まで考えていたのに別の彼女がいると知って別れたばかりの恋人との思い出。だから私は頭のどこかで彼があそこに隠れていてほしい、という強い願望を持っていて、実際より何十倍もの膨らみに見えてしまっているのかもしれなかった。

 そう、だからそんなことより会議会議。資料に目を通そうとしたけど、彼のことが記憶から固く固く締めていたはずの栓をこじ開けるような勢いで吹き出してしまった。会議会議……じゃない! 本当は仕事なんてしたくない。彼と結婚して、私が厳選したアンティーク調の家具に囲まれて、彼のために朝から晩まで家のことがしたかった。料理も洗濯も掃除も完璧にできる自信があった。なのに、ねぇ、なんであんなところ歩いてたのよ? 私だってもう若くないから浮気したくなる気持ちくらい分かってあげられる。せめて見つからないように細心の注意を払ってくれれば。私ってそんなに魅力がないんだろうか。わざわざ別れ話をするほどの価値もない? 私ってババアなの? ああ、カーテンの膨らみを発見して「きゃ」なんて悲鳴をあげなくて本当によかった。もしそんな声を出していたら、きっと虚しくて膝からくずおれてしまったと思う。

 三人目の発表が終わる。もう気の利いたコメントなんてできない。「みんなで討議してみましょう」という私の唐突な提案に、部下たちは戸惑ったみたいだった。「今ですか?」「全員の意見を聞いてからのほうがいいんじゃ……」などと口を挟む部下たちを「いいのよ」と私は一言で黙らせた。部下はそれ以上何も言えず、全員がホワイトボードの前に集まってブレーンストーミングを始めたけど、私だけが立ち上がらずカーテンをまっすぐ睨みつけたままだった。

 というより、なんでそんなにも思わせぶりに膨らんでるの? さっきは弱気になったけど、私はあなたたちのことを「気のせい」なんて認めない。そうやって、さも何かいる雰囲気で膨らんで、私だけじゃない、今まで世界中の人たちをどれだけ動揺させてきたのよ。誰かいるの? いないの? はっきりしなさいよ。私はきっと、あなたたちみたいな曖昧なものに振り回され過ぎたのね。フェイドアウトする男。シミュラクラ現象。現象って何様のつもり? 三つの点が顔に見えるからって何がそんなにすごいわけ。こんなことを言ったらますますババアになったとでも思われるんだろうか。彼が浮気していたあの子のように若い娘なら、こんなふうに身も蓋もない考え方はしないんだろうか。でもやっぱりそうやって思わせぶりに膨らんでいる以上、許すことができなかった。お前は自分が周りにどういう影響を与えてるか全然分かってない。この目で見たものをそのまま素直に驚けなくなっていることに気づかされる哀しさがお前に分かるの? 理性や、積み上げて来た経験や、キャリアがすべてくだらないものに思える哀しさが。子供の頃の無邪気な自分からどれだけ遠いところに来てしまったか。昔、私にも確かにあったはずの若さや、可能性のことが。お前を見ていると、自分がすごくつまらない人間になってしまったことを突き付けられる。昔の私を思い出させないで。

「ねえ。噓でしょ。大の大人がよってたかって、そんなことしか思いつかないわけ? 給料返しなさいよ」

 ねえ、私は今、もしかしたらこうなんじゃないかって思った。そうやってお前みたいなやつが考えなしにバカみたいに膨らんでいるから、私のように哀しい人間が増えるんじゃないかって。みんな、あなたには期待してるのよ。「今度こそ、今度こそ、絶対に誰かいるはず」。でもいつもあなたがいないから、私たちは現実的になったり論理的に説明をつけることを覚えていく。他にもいろいろなことで覚えていくかもしれないけど、でも一番始めは誰でも必ずカーテンの膨らみに裏切られる。少なくとも私はそう。私を一番最初に裏切ったのは、あなた。そのせいで私には裏切られ癖みたいなものが染み付いてしまったのかもしれない。何人もの男が私に噓をついて逃げていく。どれだけ尽くしても無駄だ。つまり、あなた。原因は全部、あなた。

「全員、今すぐマーカーを置いてチョコを食べなさい。糖分よ。そこにあるでしょ。アイディアが出るまで食べ続けなさい」

 いい加減、姿を現したら? いつでも自分が確かめてもらえるとでも思ってるの? 私はもううんざりだった。煮え切らない男も、はぐらかされる答えも、意味ありげな「君は大丈夫」発言も、何もかも嫌。曖昧なものすべてが大嫌い。

「食べたら書いて。アイディアを限界まで絞り出すのよ。早く!」

 気づくと、カーテンの膨らみがさっきより心なしか小さくなっていた。待って。消えるの? 何も言わずに? 私が本音をぶつけるから? そういうところが卑怯だという話をしているのに。ねぇ、ちょっと待ちなさいよ。噓よ。待ってよ。消えないで。私には一人で強く生きていく自信なんてないの。なのにどうしてあなたたちはみんな私の元から去ろうとするの。私にはもうあなたを開けて確かめる勇気がないのよ。どうせいないんでしょ。いるはずがないもの。だったらせめて私の話を聞いてから消えて。私が初めて膨れ上がったあなたを見つけたのは小学校三年生のとき。二階の自分の部屋だった。両親が二人ともいない夏休みの昼過ぎ、私がポスターの位置をああでもないこうでもないと貼り直していたときで、最初はただの見間違いかと思った。「何。どうなってるの。でかすぎない?」と聞いたけど返事はないし、私がおそるおそる近づいて触れると、あなたは私の目の前でもう一回り大きくなったような気さえした。思い出してきたわよね。私はすぐに庭へ飛び出して二階を見上げてガラス窓のほうから確かめた。でも中に人がいるわけじゃない。別の部屋からわざわざ屋根にも登ってみたけど、やっぱり同じで誰も見えなかった。最初は怖かったけど、私はなんとなく自分を守ってくれる存在のような気がして、あなたのことをそのままにしておいたんだった。二十日間ほど、あなたは私の部屋で暮らしてた。毎晩「おやすみ」と声をかける関係になったし、私はカーテンが使えないから段ボールで朝日が入ってくるのを防いだりしてたわよね。なんだ、あの頃から誰かにいてもらおうとして必死だったんじゃないの。

 別れが来たのは突然で、ある日、部屋に入るとなぜか縛っていたの部分が勝手に外され、カーテンがぴったり閉められていた。母親に二人の関係を隠してたのがいけなかったんだけど、私はあなたが何も言わず去ったんだと思って、泣きながら急いでカーテンを開けてしまった。二十日ものあいだ一緒に過ごしたのに、そこにはもう誰もいなかった。あなたの抜け殻のようにレースのカーテンがかろうじて隅に溜まっているだけだった。私はあなたの名前を呼んだ。そうよ。名前を付けてたの。

 もういい。やっぱり昔の自分を思い出すのは辛すぎる。あの頃の私はつまらない説明なんて考えたりしなかった。何に対しても素直だった。部下に舐められたくないとか、おかしな女だと思われてしまうんじゃないかなんてこれっぽっちも怖がらなかったし、何より、常識なんかに私を縛らせたりしなかった。ぜんとしていた。どんなことがあっても、誰にも、自分を縛らせなかったのだ。

 ホワイトボードを見ると、部下たちが書きなぐった色とりどりのアイディアが重なり合っていた。誰が何を書いていたのか、これじゃ分かるわけない。嫌だ、みんな馬鹿なの。本気? 私は何か大事なことを思い出したような気持ちになって、子供の頃に戻ったみたいに資料の裏側の白紙の部分に、三つの黒丸を書いてクスクス笑った。ねえ、これ見て、人の顔に見えるのよ、ただ点点点って置いただけなのに!

 部下たちがみんなで資料を覗き込んで「どうしたんですか、部長」と口々に心配し出したけど、私は椅子から立ち上がると、ドアのところでかわいく手を振って会議室をあとにした。いつも昼食を買いに行くときに「パンプスって歩きづらいわよね」なんて、みんなでぶつくさ言ってるタイルの長い道をスキップしたり、「シューダダダ!」なんて呟きながら突然ダッシュしたりして心の向くまま、体の思うままにぐんぐん歩いていった。オフィス街のいろんなところに片足で乗っかったり、また無意味に「シューダダダ!」と叫びながら曲がり角をダッシュしたり。ずいぶん動き回ったあと、後ろを振り返ると、高層ビルに窓ガラス清掃業の黄色いゴンドラが見えた。それらがちょうど三点の場所にいたのを発見したときはおしっこをちびりそうになったわ。すごく大きな存在の誰かが、私のことを見つけてくれたと思ったから。やっと私の目の前に現れてくれたのね。目から涙を溢れさせながら、私はあなたにそう言ったのよ。

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