嵐のピクニック (講談社文庫)

本谷有希子



 パプリカ次郎が最初にあれを体験したのは十歳のときで、彼はおじいちゃんを手伝うため、屋台の売り子として市場に立っていた。苦しい家計を助けたいと、パプリカ次郎は懸命に道ゆく人々に声をかけて、野菜を売りさばいた。まだ小さな体で木箱を踏み台にして、吊り下げてあるザルに器用に小銭を入れる。

 最近めっきり足腰が弱ったせいで樽に座ったきりのおじいちゃんは、みんなから「いいお孫さんを持ったわねえ」などと言われて満足げだ。

 パプリカ次郎は軒先で動物をこれみよがしに飼っている他の屋台に負けないように、自慢のボーイソプラノで野菜の名を高らかに歌った。誰もが耳を傾け、その愛らしさに微笑んだ。屋台は、昼間から酒を飲んでばかりで働こうとしない父の代わりにパプリカ次郎が譲り受けることになっている。

 その日一日の仕事を終え、おじいちゃんが次郎の頭に優しく手を置いた。

「そろそろ帰ろうか」

「うん」

 その時、奴らがやって来たのだ。

 次郎が女の人の叫び声がしたほうに顔を向けると、真っすぐ続くマーケットの向こうからまるで魚や花や肉の花火でも打ち上がっているかのように、幾つもの屋台を破壊しながら、何かがこちらに近づいてきていた。

 あまりの光景にぜんとしていた次郎は、周囲の人々の「来たぞ!」「また来たぞ!」と喚き逃げ惑う姿を見て、ようやく我に返り、おじいちゃんの元へと駆け寄った。

「早く逃げよう!」

 だが、パプリカ次郎が服を引っ張っても、おじいちゃんは動こうとしなかった。次郎が急いで杖を持って来ても受け取らなかった。その間にも地響きは続き、何かが屋台を吹き飛ばしながら、かすかな銃撃音とともに勢いを増してこちらに近づいてくる。

 どうして動かないのか、次郎は尋ねた。おじいちゃんは焦る孫の頭を撫でながら、「あいつらはいつも、ああやってわざと追われてるんだ」と言った。

 次郎には理解できなかった。そうこうしているうちに、カンフーのような動きをするアジア系の男がきれいな白人の女と足をもつれさせながらやって来た。次郎の目の前で、バランスを崩し、おじいちゃんの屋台目がけて派手に頭から突っ込んでいった。車輪はあっけなく外れ、大きな音を立てて屋台が横倒しになった。朝から汗水垂らして稼いだザルの中の小銭があっという間に散らばっていく。

 アジア系の男はきれいに回転しながら立ち上がり、屋台が壊れたことに何の関心も示さず女とともに走り去った。足元には何もなかったのに、男がわざとバランスを崩すところをパプリカ次郎は目撃していた。男は野菜が空中に跳ね上がるのを確認したあと、白人の女と笑みを交わしていたのだ。銃を撃ちながら追いかけて来た黒いスーツの男たちがあとを引き受けるように、アジア系の男の被害を受けなかったものを一つ残らず吹き飛ばしていった。

 彼らが走り去ったあと、市場の誰もが黙々と道に散らばったものを片付け始めた。文句一つ言わず。竜巻に巻き込まれたあとみたいに。

「露店商なら避けられない」

 おじいちゃんは呟いた。

 今なら、その意味がパプリカ次郎にも少し分かる。あいつらは本当に台風や雷と同じだったのだ。あのあと、なんの前触れもなくやって来ては、修理した屋台を壊して去っていくところをパプリカ次郎は何度も目にした。おじいちゃんはスーツの男の流れ弾に当たって死んでしまった。屋台を受け継ぐことになった次郎は、当初、少しでも見栄えを良くしたいとテント地の屋根を知人から譲ってもらったが、屋根を設置した途端、空から奴らが降って来た。大きくバウンドし、そのまま落ちて来て屋根を貫通し、屋台を木っ端みじんにして去っていった。場所をどこに変えても無駄だった。露店商でいる限り、彼らは好きなだけ湧いたように現れた。

 パプリカ次郎はたった一度だけ、激突してきた隙を狙って一番最後尾の男のズボンの裾にしがみついたことがある。

「どうしてこんなことをするんですか」

「あなたたちは何者ですか」

「私たちが何をしたんですか」

 サングラスをかけた男は、このために覚えた英語を叫ぶ次郎を驚くほど優しく地面に立たせ、顔についた土を指で拭った。何か話してくれるかと期待したが、うっすらと口端を持ち上げただけで、男はまた銃を乱射しながら向かいの金物屋のに突進していった。パプリカ次郎が露店のハト売りに商売替えした時も、すぐに彼らが来て、あれよあれよという間にハトを一羽残らず逃がしていった。

 ある晩、パプリカ次郎は屋台の前にノリのたっぷり入った壺を置いた。そして数日後、女の人の叫び声が市場の入り口のほうから聞こえた瞬間、裸になってその壺の中に飛び込んだ。

 人々の逃げ惑う声が段々と大きくなり、すぐそばで何かが壊される音がした。息を止め、ぬるぬるするノリの中で鼻を摘んで待っていると、壺の存在に気づいた彼らの一人が足音を響かせ、パプリカ次郎の入った大きな壺に激突した。

 ノリまみれのパプリカ次郎は、スーツ姿の男の背中にしがみついて、みるみる小さくなっていく市場を見送った。街を抜け、砂漠に出ると、彼らは「アーハィ」という甲高い雄叫びをあげ、風のように早く走った。彼らのスーツは、スーツに見える不思議な皮膚だった。サングラスも皮膚の一部だった。やがてどこからか現れた、目鼻立ちのくっきりした男と、胸の大きな女、筋肉質な男たちの集団が、パプリカ次郎のうしろに繫るように列を作った。彼らはどんどん増えていった。銃を乱射しながら走り、ナイフを振り回し、くすねた果物や野菜を皮膚の内ポケットから取り出し、思い思いにかじった。夜になると、彼らの走りは一層力強くなった。

 やがてノリががれ、パプリカ次郎は砂漠に落下した。

 七日七晩かけて故郷の街にたどり着き、市場へと戻った。

 パプリカ次郎は今でも露店商を続けている。

 だが最近は、彼らのやってくる回数も少なくなった。「みんな彼らのことを信じなくなったからさ」と物好きな観光客に次郎は説明する。

 それでも、たまに彼らはやって来る。昔と変わらず、派手に、市場をめちゃくちゃにしながら。パプリカ次郎は誰よりもぶつかりやすい店先に立ち、なるべくオーバーリアクションで驚いてみせる。激突していく彼らに愛を込めて。最大の敬意を払うことにしている。

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