嵐のピクニック (講談社文庫)

本谷有希子



「しもやけを利用して足をくっつけてみようと思うの」

 朝ご飯を食べたあと、彼女が言い出した。

「何?」

 もう一度電気毛布で温めっぱなしのベッドへ戻るつもりだった彼は、食器を運ぶ彼女の後ろ姿を驚いて見つめた。

「ごめん。しもやけを利用して……なんだって?」

「だからせっかくだからくっつけてみるんだって」

 彼女は彼の前に戻って来てクラウチングスタートのように屈んで、左足のオレンジ色の靴下を脱ぎ始めた。「というより、ごめん。本当はもう始めてるの。小指と薬指なんだけど」

 彼は思わず立ち上がってリビングの入り口まで行き、もう充分朝日が差し込んでいる部屋の電球が最大限まで明るくなるように調節した。片膝をついている彼女のところまで戻り、しゃがんで顔を近づけてみると、確かに彼女の言う通り、左足の小指と薬指がパンパンに腫れ上がり、お互いの皮膚がくっ付き始めている。

「何これ。気持ち悪いよ。何してんの?」

 彼の声は悲鳴のように聞こえた。

「私、昔から寒くなるとよくこうなってたの。中学のときは女子ソフトボール部に入って毎日朝練してたけど、指定されてたシューズは、足の甲あたりの生地がメッシュですっごく薄くてね。氷のはった水たまりがそこら中にあるボコボコのひどいグラウンドだったから、部室でよくこっそり剝がしてた。袋とじみたいにそっとね」

「そうじゃなくて」よく見ると、グロテスクなだけじゃなく可愛らしくもある足の丸みに、彼は少しだけ勇気を取り戻した。「なんでそんなことしてんのよ」

「なんでだと思う?」彼女は見上げるように彼に視線を向けて質問した。「ちゃんと理由があるとしたら」

 自分が責められているような気持ちになって、彼はいろいろ考えてみた。すぐに中国のてんそくのことが頭に浮かんだけど、彼女が小さい足の女になりたいと言っている場面なんて、付き合って一度もお目にかかったことがない。あとは……あとは一体どんな理由でそんなこと考えるんだろう?

 彼は正直に打ち明けた。「全然分かんない。ファッション感覚? そういう危ない肉体改造がもしかして流行ってんの?」

「もっとちゃんとよく見てよ」

 立ち上がった彼女に叱られて、彼はベッドの脇から眼鏡を取って来た。かしずくようにフローリングの床に腰を下ろし、でもその位置関係はなんとなく奴隷気分というか恥ずかしかったので思い切って腹這いになった。彼女は料理はあんまり得意じゃないけど、床にクイックルワイパーをかけるのがとても好きな子で、ワックスもきちんと一ヵ月ごとにかける。

 彼女の23・5センチの足をこんな近くで眺めるなんて初めてだった。白い足の甲から五本の節がそれぞれの指先に滑走路みたいに伸びていて、彼はスキージャンプ台をイメージした。熟れた果物みたいにジュクジュクしてるのかと思ったけど、それは水虫のイメージが混ざっていただけで、むしろ粉がふいてひどく乾燥していた。

「私、末端の血管がかなり細くって、血液がいかないみたいなの」

 もっとよく見ようと、彼は右頰を床にくっつけた。真っ赤に腫れてコロコロの小指はもともとすごく小さかったみたいで、そんなところにまで爪らしきものが生えていることに、彼は小さな感動のようなものすら覚えた。思わず「触ってもいいの、これ?」と一番膨張して今にも弾けそうな薬指に触れようとすると、「駄目!」、彼女はすばやくよけた。「痒くなるのよ。痛みと痒みとの闘いなんだから」

 もう少し眺めていたかったけど、段々とアツアツの焼き栗のすぐ側に顔を近づけているような気がしてきて、彼は体を起こした。あり得ないけど、指がぜて目の中に飛び込んできたら痛いだろうな。

「分かんない。教えて、理由」

 彼が腰を下ろしたまま降参すると、彼女はまるでおもちゃを投げても取りにいかない愛犬を見下ろすように、明らかに傷ついた顔をした。

「噓。ちゃんと考えるよ」

「いい。教える。付き合いが長くなるってこういうことなんだし」

 彼女は寂しそうに呟いて、彼を立ち上がらせた。今度は彼女がひざまずき、何も言わずに彼の靴下を脱がせ始める。

「何すんの」

 抵抗しようとすると「前を向いてて」と注意されたので、彼はされるがまま棒立ちで待った。

「私のはもう分かんないかもしれないけど、そっちのはまだ……私、かなり深く彫ったし」

 靴下を手にした彼女が、彼の目の前に戻って来た。二人とも真面目な顔で左足だけ裸足で、朝のリビングに突っ立っているのは妙な気分だった。「彫ったって、もしかしてあれのこと?」

 彼女は丸まった靴下を握りしめたまま何も答えない。

「あれのことでしょ、タトゥ」

 彼はしゃがんで自分の足の指を確認した。男性にしては爪の下あたりの皮膚に毛穴がなくてツルツルだと、彼女に付き合い立ての頃、褒められて嬉しかったことを思い出した。それがきっかけで、二人は安全ピンにインクをつけて、お互いのイニシャルを会うたび少しずつ彫り合ったのだ。今だったら信じられない、そんなヤンキーみたいなこと。目を凝らすと、あれから十年のあいだにできた皺や黒ずみにまぎれて、小指のところにかすかに【T】の赤い文字があった。間違いない。彼女のイニシャル。その隣の薬指には彼自身のイニシャル【D】が確かに仲良く並んでいる。

「えぇと、思い出したけど、これとしもやけで指をくっ付けるのってどういう関係があるの?」

 質問している途中に、彼女の言いたいことがうすうす分かってきた。彼女の指にも同じように二人のイニシャルを彫ったのだ。薬指に自分の【D】、小指に彼女の【T】がやっぱり仲良く並んでいるはずだった。昨日、二十九歳になった彼女はそれをビックリ人間みたいな方法で一つにしようとしてる。

「馬鹿なことやめろよ」

 いらついてきた。彼は立ち上がると、部屋の隅に転がっていたオレンジ色の靴下を手に取った。ぶっきらぼうな手付きで彼女に履かせようとする。

「すぐあっためて病院に行って来いよ」

「もともと血が通ってない指なんだから、もしかしたらこうしたほうが体にいいかもしれない。足の小指なんてなんのためについてるのか分からないし」

 靴下を履かせようとする彼から距離を取って、彼女はリビングをじりじりと逃げた。

「いい加減にしろよ。皮膚がくっついてるなんて、歩けなくなったらどうすんだよ」

「そしたら二人で支え合って歩けばいいじゃない。足なんて二人に一本ずつあれば充分なのよ。支え合って歩けばいいんだから」

 彼は部屋の扉のところまで行くと、電球の調節つまみの下にある床暖房のスイッチをバン! と押した。彼女がそれと同時に逃げるのをやめたので、ひょっとして彼女自身の電源を切ってしまったんじゃないかと彼はドキドキした。彼女は……何か言いたげにこっちを見つめている。ひょっとしたら彼女は知っているのかもしれない。彼が最近、ちょっかいをかけている女の子の存在を。

 長いあいだ見つめ合っていた。そのうち二人とも足の裏がホカホカし始めた。彼女が無表情を装いながら足の指を芋虫のようにこっそり動かすのを発見して、彼は自分までむず痒くなってきた。しもやけのところに急激に血が巡って、痒みがぶり返しているに違いない。

「もういい。やめる」

 突然、彼女が諦めるように言い捨てた。

「いいの?」

「うん。馬鹿馬鹿しくなってきた。こんなもの、無理やりくっつけようとしてたなんて」

「やっと気づいた?」

 彼女は哀しそうな目で一瞬だけ彼を見て、「ほんとにやっとね」と呟いた。

 彼女がソファに腰を降ろしたので、彼もほっとしながらその隣に並んだ。この部屋に二人でいるときの、いつもの定位置。彼女は左足だけソファに乗せて、足の爪を切るときと同じ体勢を取った。

「その代わり、手伝って。ここの皮膚、ゆっくり剝がしていって」

 逆らえず、彼は彼女の薬指と小指にそっと触れてみた。足はぶにぶにしていて、ものすごく熱かった。皮膚の裂け目をよく見るとうっすら縦に線らしきものが入っている。彼女が言った通り、本当に人間の袋とじみたいだ。

「本当に裂くの、これ」彼はおそるおそる聞いた。

「そう」

「力の加減が分かんないんだけど」

「裂いて」

「ここにひび割れみたいのがあって、怖いんだけど」

「裂いてよ」

 勇気を出して、指先に力を入れてみた。上のところに少しだけ切れ目が入る。そのままゆっくり、繫がりかけの皮膚を丁寧に剝がしていく。痛がるかと思ったけど、彼女は反応しない。さらにじわじわ時間をかけたせいで寝てしまったのかもしれない。切れ目があと数ミリまで来たところで、彼は彼女の薬指のタトゥに気づいた。十年前に彫った、自分のイニシャル。

「ねえ、すごい。あった。【D】!」

 宝物を発見したような口調で彼は言った。

「そう」

 そっけない返事だった。

「ねえ、【T】も見つかったんだけど」

「私の名前が? へぇ」

 彼は急に不安になって手を止めた。

「あのー。これ、切り離したあと、僕らって?」

 彼女の返事はなかった。

「あのー。もしもーし」彼は離れかけのしもやけの指を見つめたまま、もう一度訊いてみた。

「裂いてよ」聞いたこともないような、温度の低い声。

 指に手をかけながら、全部裂いたあと、彼女の中から何かが飛び出してくるところを彼は想像した。彼女はまるで裂け目の奥で待ち構えているように、息を殺してこちらを見つめている。この袋とじは本当に開けていい袋とじなんだっけ? やがて、体中から汗が吹き出て来た。彼女は確実にスタンバイしている。自分の足で、五本の指でちゃんと立つスタンバイをしている。

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