家に帰ったら、夫がボクシングを観ていた。
「へぇ、そんなもの観るなんて知らなかった。意外ね」
買い物袋をリビングのテーブルの上に置くついでに話しかけると、彼はソファに座ったまま、へぇ、とか、そうね、とか適当な返事をした。よほどおもしろいのか仕事の手を止めて、珍しく食い入るように見つめている。
「どっちが勝ってるの? チビのほう? でかいほう?」
マフラーを外しながらソファの隣に座った。すぐに夕食の準備に取りかかろうと思っていたけど、自転車のギアが壊れていたせいでちょっと疲れた。ちょっと休憩。十五分だけ。
夫は相変わらずテレビから目を離さないまま、今のところチビのほうが強い、みたいなことを説明してくれた。ちょうど何ラウンド目かが終わったらしく、ゴングが激しく鳴らされている。どちらの選手もパンチで顔が切れたのか血まみれで、コーナーの椅子に座った途端、水をセコンドの人に頭からかけられていた。
「ね。ね。すごい。動物の水浴びみたい。野蛮ね」
野蛮ね、の響きがなるべく嫌味に聞こえないようにしたつもりだったけど、夫は敏感に感じ取ってしまった。こういう男がいいんだろ、本当は。え? なんのこと。とぼけるなよ、知ってるんだぞ、お前が本当は野蛮な男にめちゃくちゃにされたいと思ってること。え、何それ、私が文化系の男が好きなの知ってるでしょ、体育会系の男なんて嫌よ、繊細さがなくて。彼は握りしめていたリモコンをテーブルに戻すと、セーターの袖をまくって脈を確かめるように自分の手首にきゅっと指を巻いた。夫の手首は確かにボクサーの男たちとは比べものにならないくらい細かった。いいじゃない、アーティストっぽくて。私はわざとからかうような口調で彼を励ました。彼は憐れまれることが何より嫌いだから、あえてそういうジョークっぽい言い方をしたのだ。
じゃあお前、もしこういう男たちから誘われてもなびかないのかよ。彼がまた話しかけてきた。なんでもいいから自信を取り戻させるようなことを言わなくちゃ。そう思いながら、私はテレビの中の男たちに完璧に目を奪われかけていた。血が増量されたみたいに巡って、体温が上昇していた。切なくなるような唾が湧きあがる。なびくわけないじゃない、そもそも誘われるようなこともないし。闘う男の体ってなんてきれいなんだろう。二人とも、すごくいい体。骨も肉も引き締まって無駄がなくって。夫がまた話しかけてくる。俺の体のことどう思ってるんだよ。好きよ、白くて、肌がモチモチで。あぁ、どうして今までちゃんとこういうものを観てこなかったんだろう。ボクシングも、プロレスも、総合格闘技もみんな苦手だと思っていた。けれど、それは大間違いだった。私はいつもそう。なんでも自分がこうだと決めつけすぎて、他のものの可能性について考えてみようともしない。中学生の頃からだ。友達みんなで遊園地に遊びに行ったあの日も、きっと私みたいなおとなしい女はジェットコースターなんか嫌いなはず、と決めつけて一人だけ乗らなかった。私みたいな女はきっと文化部に入るはず。手芸部が落ち着くはず。地元で就職するはず。でももしあの時、ジェットコースターに乗っていたら本当はどうだったんだろう。私は私の知らない自分に出会えていたような気がする。全然違う生き方をしていたような気が。ゴングが鳴って、男たちが立ち上がった。ただパンチを繰り出しているだけなのかと思いきや、一発一発をガードしながら男たちは鋭い目つきで相手の動きを見極めている。きっと動体視力ってやつだ。私にももし動体視力があれば、いろんなものを見逃さずに済んだだろうに。勝負がついて、今までで一番大きなゴングが打ち鳴らされた。
次の日から、私はボディビルダーを目指した。本当ならプロボクサーを目指すべきだと思ったけど、私の中には闘志のようなものが一切見当たらなかったのだ。誰かを殴り倒したいという欲望はどこにもなかった。ただ昨日テレビで観た二人のボクサー─特にスキンヘッドの選手─の体が、脳のどこかに焼き付けられてしまったみたいに、近所のオーガニックストアでレジを打っているときも頭の中から消えてくれなかった。
360度、彼らはいろんな方向に回って、私に体を見せつけてきた。私がお客様に商品を説明するときもだ。これは古くから生薬にも使われているザクロを配合した保湿クリームです、筋肉ってどんな硬さなんだろう。こちらは希少なオーガニック植物エキスを濃縮させたヘアオイルなんですよ、鍛え上げられた体ってどんなふうに脈打つんだろう。不倫願望? まさか。私は夫を愛している。あの人は不器用で幼いところもあるけど、仕事熱心すぎて損をしているだけなのだ。絡んでくるのだって、今の仕事のヤマを越えるまでの辛抱だ。私は夫以外の、他の男に触りたいわけではなかった。私は純粋に、思う存分、引き締まった筋肉に浸りたいだけだった。久しぶりに味わう、空中に浮かび上がるような気分。仕事の帰りに薬局に寄ってプロテインを買おう。
初めて飲んだプロテインの味が気に入って、私はスポーツジムにも入ることにした。家計をやりくりしながらやっていけるか不安だったけど、電車で二駅のところに小さな個人経営のフィットネスクラブがあって、「求める結果が出るまで無料で百回サポートします!!」とホームページに書いてあったから、そこに決めたのだ。今まで運動らしい運動なんてしたことがなかった私は百回のトレーニングで自分がどこまで変われるのか想像もつかなかった。「ボディビルダーになりたいんです」と、マンツーマンレッスンの初日に控えめに打ち明けると、トレーナーの─私よりまだずっと若い二十代前半の男の子─は、ボードに記入していた手を止めて、驚いた顔で私を見た。
「ボディビルですか? ダイエットじゃなくて」
「えぇ。確かホームページにそういうトレーニングのコースもあるって」
「ありますけど、珍しいですね。普通、三十代の女性の方ってダイエット目的がほとんどなので、てっきり」
「難しいですか?」
「いえ、そんなことはないですよ。でもボディビルの場合、ウェイトトレーニングだけじゃどうにもならないんです。栄養のとり方が非常に重要になってきますし、たとえば一日四千キロカロリーの摂取とか、大丈夫ですか? 成人男性のおよそ二倍のカロリーなんて」
「少しずつなら」私は主婦にしてはスリムなほうだったけど、なんの
「プロテインは?」
「飲んでます」
「何かの大会に出たいとか、そういう目標があったり?」
「いえ。誰にも見せなくていいんです。自分のための筋肉」
珍しいですねそういう方、とポロシャツの若者は呟くと、うぅんと唸って、ボードにボールペンの先を数回押し付けた。断られてしまうだろうかと心配になっていると、じゃあそれ用のプログラムを考えていきましょう、と思いがけないやる気を見せてくれた。話をしてみると、彼は子供の頃からスポーツマンだった。大学ではラグビーをやっていて、イルカの調教師を目指そうか迷ったけど、知り合いのツテでこのジムにインストラクターとして雇われたばかり。あどけない顔の、かわいい子だった。八重歯。私より十二も歳下。彼はきっと私服が少しダサいはず。髪型の雰囲気でそんな感じがする。やっぱりラグビー一筋だったからだろう。同い年くらいの若い女の子が好きそうだ。私も夫と同い年だった。大学の動物保護サークルで知り合った。真っ赤なポロシャツのコーチは引き締まった表情を作って、浮き立っている私に向かって、こう言った。
「でも、世間のボディビルに対する理解は想像以上に冷たいですよ。覚悟して下さい。それから、ご家族の理解は絶対必要です」
けれど結局、私は夫に言わなかった。結婚して七年が経つけど、彼に大きな隠し事をするのはほとんど初めてだ。でも近頃の夫は家でも書類やパソコンから目を離そうとしないし、話しかけて来たとしても自分に自信を取り戻させてほしいときだけ。夫婦のスキンシップはまるでなかった。
私は食生活が変化した理由を「お店のお客さんに勧められてプロテインダイエットを始めたから」と説明した。これまでもたびたび流行のダイエットに挑戦していたお陰で、夫はなんの疑問も抱かなかった。若いコーチと考えたトレーニングも欠かさなかった。書斎にこもった夫に見つからないように腕立て伏せ、腹筋、スクワット。体力がついてきたので週に四回ジムに通って、チンニング、ダンベルプレス、ナロウベンチ。もっと筋肉の繊維を鍛えあげるためにリバースクランチ。ボールクランチ。Tバーロウ。トップサイドデッドリフト。あとは数時間置きのプロテイン摂取と、成人男性二日分のカロリー!
美しい筋肉の繊維を鍛え上げるには想像よりも、はるかにストイックさが必要だった。もう限界だと感じたところからあと二、三歩さらに踏み込むのだ。一人だと諦めてしまったかもしれないけど、私には百回無料のコーチがついていた。ボディビルのトレーニングにはパートナーが必須で、たとえばダンベルを無理してリフティングしようとして首に落としてしまった場合、死の危険性だって充分あり得る。そうならないようにコーチは常に私の傍らで見守ってくれていた。「あと一回! いいよいいよ。すごい!」
トレーニングを終える頃には歯を食いしばりすぎて、いつも口から泡みたいなものが溢れた。でもそんなことですら私には新しい発見の連続だった。自分が泡を吹くような人間だったなんて。そういえば結婚当初、私はどうしても家計簿が付けられなかった。レシートを溜めこむだけですべて先送りにしてしまう私に、日曜まで家に仕事を持ち込んで働いていた夫は「根性がないんだよ」と言い放った。「今まで一度くらい、何かできちんと結果を出した事があるの?」。夫はよく私をそう
った。
どうしよう。首の太さが隠しきれなくなってきた。うちのお店では石鹼の保湿効果をお客さんに実感してもらうために、その場で泡立てて自分の手の甲にホイップクリームみたいな石鹼を乗せてみせる。でもその私の手首がお客さんの倍は太くて、筋まできれいに盛り上がっているから、みんな一度はぎょっとする。ホホバオイルの説明を聞いているふりをしながら、首の太さが顔と同じくらいになりつつある私のエプロンの下を、誰もが好奇心に満ちた目で想像する。落ち着かない。素っ裸でいるみたいだ。ついにお店の女性オーナーに呼び出されて、みんなが触れたくて触れられなかったんだろう私の体のことについて質問された。
「あなた、最近前と少し様子が違うみたいだけど、どうかしたの?」
「えぇ、ちょっと」
「なんていうか、その、体が一回りも二回りも大きくなったじゃない? 最初は妊娠かなと思ったけど……。何か体にあわない薬でも飲んでるの? 更年期障害用の何かとか。副作用が出てるんじゃないの?」
「いえ」
「でも女性ホルモンのバランスが崩れ過ぎてるわよ」
私はオーナーにトレーニングの事を打ち明けた。オーナーは初めは、ふんふんと険しい顔付きで頷いていたけど、私が「こんなにも何かに打ち込んだことはない」と話したところで、あなた表情がいいわとすごく褒めてくれた。女手一つで子供三人を育てあげたオーナーは、店をいくつも経営しているとても自立した人だった。平凡で自己主張のなかった以前の私を知っているだけに、今のほうがずっと素敵、と最終的には心から励ましてくれた。
お店のみんなも、私の第二の人生を応援する、と言ってくれた。次の日、誰かが使わなくなった紫色のヨガマットを持ってきてくれて、私はお客さんのいないときなら好きなだけヘアケア用品の棚の裏で、トレーニングができることになった。休憩中に生卵をジョッキで飲んでも、誰も嫌な顔一つしなかった。たまに子供のいたずらで【ここに来ると笑顔のマッスルレディにしめ殺されます!】という落書きが店の駐車場に書かれていたりしたけど、馴染んでしまえば、うちのお客さんのほとんどが好意的だった。シングルマザーや、仕事や育児に苦労している女性も多くて、みんな私を見ていると勇気づけられると言う。ボディビルは美意識から生まれた筋肉作りなので、どんな苦しい状態でも笑顔を絶やさないお陰なのかもしれなかった。
夫だけが、何も気づいていなかった。私の胸板はもう鉄板でも入ったみたいにコチコチで、腕は丸太をへし折れそうなほど太く、ウエストは六つに割れながらぎりぎりまで絞られ、離れて眺めると大きな逆三角形が歩いているような体型になっていたのに。そのことを職場のみんなに相談すると、「男なんてみんなそうよ」と慰めてくれた。「うちだって髪の毛を切ってもなんにも気づかないわよ」
私は、髪の毛だけは何も手を入れていなかった。夫はロングヘアーが好きだったから。健康的に見えるように真っ黒に日焼けをして、お客さんから紹介された歯医者で割引価格で歯をホワイトニングしたけど、髪の毛だけはビルダーになる以前のままだった。
週四回のトレーニングが八十回を過ぎた頃、コーチが私に、ポージングの練習を勧めてくれた。「体が大きくなるのは快感だろうけど、どうせなら大会に出ていろんな人に見てもらったほうが励みになる」と言うのだ。私は何度か、そんな大それたこと自分には向いてない、と丁重にお断りしたけど、コーチは熱心に食い下がった。あなたのその、根っこのところにある自信のなさをなんとかしたほうがいいと僕は思うんです。自信のなさ? 私の? そうです。気づいてないかもしれないけど、あなたはすぐに「どうせ」とか「私なんて」と言う。どうしてそう思い込んでしまったのか分からないけど、自信を取り戻したほうがいいと思います。
言われてみれば思い当たった。完璧主義の夫といるうちに、私はどんどん自分を何の取り柄もない人間だと感じるようになったのだ。結婚前はそうでもなかったのに、夫に自信を取り戻させるために自分の劣っているところを挙げ連ねるうちに、いつのまにか「私なんて」が口癖になっていた。
「大会に出るかどうかはまだ分からないけど……」と言い添えて、私はジムの鏡の前で生まれて初めてポーズを取ってみた。ビルダーの基本中の基本。おそるおそる両腕を顔の横にあげて血管に力を入れて一番膨らんでみえるような角度で、キープする。「苦しげじゃないほうがいい!」とコーチにアドバイスされたので、私は一生懸命口角を持ち上げて、自分の筋肉の大きさをアピールした。笑顔にまだ迷いがある。自分でまっすぐ鏡を見ることができずに、私はポーズをやめてしまった。「焦らず、ゆっくりやっていきましょう」とコーチがタオルをかけてくれた。
ある日、職場でホホバオイルの実演をしていると、店の前でお客様の犬同士がケンカを始めた。リードが首輪からすっぽ抜けてしまい、ヨークシャテリアが大きな犬にキャンキャン吠えて近づいて、反対に首根っこをくわえられてしまったのだ。大きな犬は臆病で、他の犬に鼻先までクンクンと臭いを嗅ぎに来られても、怒るどころか周りをおどおどと窺うような犬だった。ヨークシャテリアの飼い主が飛んできて、なんとかしなくてはとリードでぶったせいで大きな犬はますます混乱し、仔犬をくわえたまま振り回した。キャンキャンという声が小さくなっていき、大きな犬が口を開けて牙を剝がした。仔犬はすでに息絶えていた。
誰もなんにも言わなかったけど、考えていることはきっと同じだった。なぜ一番近くにいた私がその丸太のような太い腕で、二匹の犬を引き離さなかったのか? いざというときに役に立たない筋肉を、一体なんのために応援しなければならないの。ビルダーの筋肉はスポーツ用のものとは、そもそもまったく異なる、鑑賞するためだけにある筋肉繊維だ。誇り高いビルダーたちは何があっても、決して実用的に力を使ったりしない。そう思い込んでいたせいで、自分が犬のケンカを止めるなんて思い浮かびさえしなかった。私がぐずぐずせずに二匹を力任せに引き離していればこんなことにはならなかったのに。ヨークシャテリアは私も今まで何度か抱っこさせてもらったことがある、店のみんながかわいがっていた人なつこいやんちゃな子だった。
「明日から店でトレーニングするのはやめます」
私がその日の帰り際にそう告げると、しばらくはそのほうがいいかもしれないわね、とオーナーは頷いた。更衣室では、誰も話しかけてこなかった。重苦しい空気の中、私が「お先に」と声をかけると、みんな「お疲れさま」と挨拶してくれたけど、店の裏を通りかかったとき、私は目にしてしまった。燃えるゴミ置場に捨てられた、紫色のヨガマット。
夕食のあと、すぐに書斎へ戻ろうとした夫に「今日、職場でトラブルがあってね」と私は昼間の一件を切り出してみた。間近で見たヨークシャテリアの死が思った以上にショックだったのだ。私の、もうあそこにはいられないんじゃないか、などという弱音をひとしきり聞いたあと、あぁ、とか、そうなの、といつも通りの返事をして立ち上がった夫を見て、私は驚くほど腹が立っている自分に気づいた。テーブルの上のパン屑を拾い上げながら、食器を洗うために立ち上がろうとして、なぜか「そういえば美容室に行ったの」と言い添えていた。髪の束を指先でつまみ上げながら、かなり短くしてみたんだけど、と口にしていた。美容室になんてずっと行っていないのに。
夫は椅子を戻そうとしていた手を止めて、私を眺めた。こんなふうに彼の視線を浴びるのは、もう思い出せないほど久しぶりだった。夫の顔には多少皺が増えていたけど、大学時代とほとんど変わっていなかった。十九歳で知り合ったときのまま。カピバラに頰擦りしていたときのまま。少しだけ沈黙があって、夫は「似合ってるんじゃないの」と言った。
「そう? でもあなたはもっとロングヘアーが好きなのかと思ってた」
「でもそのくらいも悪くないよ」
「どれくらい切ったと思う?」
「うーん。10センチくらい?」
夫は鼻の脇を搔きながら答えた。それから私の強ばった表情に気づいたのか、機嫌を取るように笑った。私はこの笑顔がかわいくて、その頃別に好きな人がいたけど、熱心に言いよってくれた夫のほうと付き合うことにしたのだ。私の顔を次々と滑り落ちていく涙に驚いて、夫は「どうした」と言った。昼間肌にたっぷりサンオイルを塗っていたせいで、腕の上を驚くほど涙がきれいに移動した。
「いいの。なんでもない」
「でも泣いてるじゃない。職場で嫌なことでもあった?」
私がさっきまでその愚痴をこぼしていたことなど、彼はすっかり忘れていた。私が小さく首を横に振ると、食卓テーブルをまわって移動した夫は、慣れない手付きで私の肩を撫で始めた。でも私の肩はもうトップサイドデッドリフトによって美しく膨れ上がっていて、撫でてもらっているというより筋肉に触れさせてあげているという感じだった。駄目。もう一緒にはいられない。私は彼の小さな手を取って「あなたは自分のことにしか興味がないのよ」と言った。
「あなたといると、私はどんどん自分に自信がなくなっていく。私ってそんなにつまらない人間なの?」
夫はなぜ急に私がそんなことを言い出したのか分からない様子だった。私はこれ以上涙が溢れないように唇をきつく結んで、彼の目の前で薄手のセーターとスカートを脱いだ。ポージングの練習のために極小のビキニを着ていた私を見上げて、夫は「何それ。いやらしい下着?」と戸惑いながら口にした。私は家を出た。ジムはまだ開いているはずだった。コーチ。コーチ。コーチ!
息を切らせながら駆け込んで来たビキニ姿の私を見ても、コーチは優しくクローズ間際のジムに入れてくれた。「トレーニングがしたいんです」。私は、気持ちを落ち着けながら必死でコーチにお願いした。
「でも過度なトレーニングは体を壊しますよ。休ませるときはきっちり休ませないと」
「分かってます。じゃあベンチプレスを三セットだけ。あれをやると気分が落ち着くんです」
私がさらに頼み込むと、コーチは分かりましたと言って、マシンに触らせてくれた。他に誰もいないジムでバーベルを上げ下げしていると、ぽろぽろと涙が溢れてきた。
「どうしても理解してもらえないんです」
「ご家族の方に?」
「そう。なんにも分かってもらえない」
「ちゃんと話し合ったんですか」
「話し合えない。夫は私のことなんか興味がないから」
「それでも話し合わないと。ボディビルダーはただでさえ孤独なんです」
孤独。コーチの言葉が胸に刺さった。
「もうどうやって乗り越えていいのか分からない」
私はバーベルから手を離して顔を覆った。そして、口にしてはいけない一言を漏らしてしまった。
「コーチが私のパートナーならよかったのに」
コーチは私の呟きを黙って聞いていた。私のことを大事な生徒の一人だと思っていることは分かっていたから、私もそれ以上何も言わなかった。でもトレーニング中に、この人が私の本当のパートナーだったらと何度思ったことだろう。彼は私に限界以上の力を出させてくれた。私の筋肉を作り上げることに、私以上に熱心になってくれた。こんな人はいない。
「落ち着きました?」
コーチが、今の発言は私が取り乱していたからだという空気をさりげなく作ってくれたお陰で、私は頷きながらバーベルを再び手にすることができた。
「僕がビルダーを他のアスリートよりも尊敬するのは、彼らほど哀しいスポーツマンはいないと思うからです。彼らは深い孤独を抱えながら、笑顔を作る。他の表情なんかないみたいに、いつも歯を見せて笑う。僕はそこに人間として生きていく辛さや決意のようなものを感じるんです」
「でも」穏やかなコーチの口調に、私は口答えした。「そうやっていつも笑っていると、自分の本当の気持ちが分からなくなりませんか。本当は泣きたいほど哀しいのに笑うなんて、人間として正しいことでしょうか。私は、私はこんなことならもっといろんな表情を夫に見せておけばよかった。私には彼が知らない、もっとたくさんの豊かな内面があるのに─」
私はきっと、もうトレーニングには来ない。夫と離婚して、また平凡で地味な女に戻って、中学生の頃ジェットコースターに乗っていたら何かが違ったかもしれない、そうじゃなかったかもしれない、と気の遠くなるような時間を過ごして、少しずつ死んでいく。
ドンドンドン、とどこかから鈍い音がして、コーチがガラス張りの窓のほうへ近づいていった。私もつられてベンチから体を起こした。ジムの窓の向こうに、夫がいた。一生懸命ガラスに拳を叩き付けているところだった。
「旦那さんですか?」
コーチが言うので、私は啞然としたまま「はい」と答えた。どうしてここが分かったの? 彼はジムのことなんて知らないはずなのに。それに、あんなに取り乱している夫を見るのは初めてだった。裏口から旦那さんを迎えに行って来ます、とコーチがトレーニングルームから出て行ってしまったあと、私はどうしていいのか分からなくなった。若いコーチと二人でいるところを見られてしまった。あんなに興奮して、私を怒鳴りつけるつもりだろうか。でも、でも、これで何もかもがはっきりするのだと思うと、待っている時間が長く感じられた。夫が何か言いたげに分厚いガラスをまだ叩いている。私は立ち上がってそちらへ近づいていくと、おそるおそる彼に向かってボディビルのポーズを取ってみた。両腕を頭の脇で曲げて、胸を張り、逆三角形を強調するようなポーズ。ビキニ姿でそんなことをする私に、夫が信じられない、という顔をする。腰の横で、握りこぶしを固めて何か重いものを引き上げるような格好をすると、もうそれ以上やめてくれ、と夫は苦しげに首を振った。こんな妻の姿を見たくなかったのね。でも、これが、本当の私なのよ。私はポーズを続けたまま、彼の前でしてこなかった、様々な表情を作っていった。寂しかったり、哀しかったりしているときの顔。本当はくだらないと思っているときの顔。あなたのセックスがよくないと思っているときの顔。これが私なのよ。私はもう一度訴えた。私は平凡な主婦じゃない。私は夫に無関心でいられるような、退屈な主婦じゃないわ。
コーチに声をかけられたらしく、彼は裏口のほうへ姿を消した。一気に力が抜けて私はガラス窓の前に座り込んだ。コーチがトレーニングルームのドアをノックするまで何も考えることができなかった。
「旦那さんを連れてきました。旦那さんとよく話し合ったほうがいいですよ。なんていうか、あなたたちはたぶん似たもの同士だから……」
私がコーチの言葉の意味を理解できないでいると、コーチの後ろから、夫が現れた。私は思わず身構えたけど、彼は怒ってはいなかった。彼は泣いてもいなかった。彼は困ったような不安そうな表情で、ゆっくりと私の側まで近づいて来た。
「さっきジムの会員証を見つけるまで気づかなかった。……君がこんなに大きくなってたなんて」
彼は私を抱きしめた。愛おしそうに私の髪を何度も撫でた。
今でも私は体を鍛えていて、天気のいい日はたまにサンオイルを塗って、夫と近くの公園に出掛ける。ドッグランを柵越しに眺めながら鶏肉のサンドイッチを頰張って、たまにだけど葉っぱを踏みしめて、手を繫いだりもする。夫の手は相変わらずアーティストみたいに細くって、私の腕はトレーニングのお陰で野獣みたいにごつごつしている。私たち二人の体格差に道往く人が必ず振り返るけど、私たちはまったく気にしない。
私のポージングは格段にうまくなったとコーチは言ってくれる。「何か一つ、吹っ切れたみたいですね」。職場のみんなとも、オーナーのお陰でまた少しずつ話せるようになってきた。みんながボディビルの大会にも出たらいいと勧めてくれるけど、まだどうするか分からない。でも出ることになったら、お金を出し合って豪華な垂れ幕を作ってくれるそうだ。「一応本人のリクエストも聞いとくけど、なんて言葉がいい?」と今日、お昼休みに聞かれたので、私は冗談で「そうね。〝もうお前はジェットコースターを素手で放り投げられる!〟がいいかも」と答えておいた。春になるまでにもう十五キロ、マシンのバーベルを重くしたい。犬も飼いたい。可愛いヨークシャテリア。