俺の名前はマゴッチギャオ。なんでこんな変わった名前なのかは知らない。俺、猿だから難しいことはあんましよく分かんない。俺、バナナ好きだけど、そのパン屑みたいな餌も好きだよ。ほら、こっち。投げて投げて。
いつものように他の仲間に負けないように、うんといっぱい飛んだり跳ねたりして、高い塀の向こうにいるお客さんたちに、俺は餌をねだった。でもお客さんは一生懸命手足を動かしてる俺を指差しているのに、結局は隅っこでじっ…としてる子にあげてしまう。俺もたまに真似するけど、寝転がってしんどそうにしてると、どさっとくれるよね。うん、くれるくれる。
じゃあ餌の取り合いでみんな、仲が悪いかって言うと、そうでもないよ。
生まれたときからずっと同じ、ずっとここで一緒に育ってるから、ケンカなんかしたって楽しくないし、もちろんボスはいるけど、あの猿は優しい猿だよ。誰も嫌ってない。俺も嫌ってない。飼育員もいいやつ。お客さんも餌くれるから、いいよ。
ある日の昼間、仲間と
新入りが来るのは別に初めてじゃなかったけど、そいつは今までのやつらとは様子が違った。俺らに似てるけど、体つきや顔が違う。飼育員は俺たちに〈チンパンジーだけど、よろしくね〉と言った。〈向こうのチンパンジーたちとはうまく馴染めなかったんで、少しの間だけこっちに来ることになりました〉って。人間の言葉の意味は分からなかったけど、俺はそんなに気にしなかった。いいよいいよ、別に。少し大きい猿でしょ? でも連れて来られたやつのほうは、二、三十匹いる俺らの姿に、しばらく緊張して動けないみたいだった。でもよく見ると、やつは俺らっていうよりか、後ろの人間たちを気にしてるの。ちょっと変わったやつだな、と思った。ボスも、他の猿もみんな気づいたみたいで不思議がってた。そんなやつ、初めてだったから。
人間たちは、かなり長い間、こっちを観察してた。いつもと違う空気を感じ取って、しばらく俺たちは誰もそいつに近づこうとしなかった。でもようやく人間が帰ったあと、我慢ならなくなったやつが、そいつの側まで匂いを嗅ぎに行って、取っ組み合おうとした。でもそいつ、全然なってないの。手足もうまく動かないし、ろくに
夜中、俺がそいつのところへみんなに内緒で行ってみると、そいつはいつのまにか起き上がっていた。片膝を、こう両手で抱え込むような、仲間は誰もしない形で座って、塀の向こうをやけにじっと眺めてる。俺がそろそろと近づいていって、「よぉ」と声をかけると、そいつはなんだかやたら落ち着いた、気になる目をしていた。なんか深い、仲間が死んだときみたいな目。
「俺、マゴッチギャオ」と俺は言った。
そいつはこっちをほとんど見なかった。塀は高いから、まるで空を見上げて星でも数えてるみたいだった。俺、無視されたのかな。でも不思議と腹は立たなくて、それはたぶん、こいつがやたらいい気持ちになる空気を出していて、答えなくても当然という感じがしたからだった。俺たちより、オツムがいいんだって俺はすぐ分かった。
「あんた誰。どこから来たの」
また無視されるかなと思ったけど、昼間に拾っておいた餌をちょこっと離れたところから差し出して、聞いてみた。そいつはやっと俺の声が届いたみたいにこっちを向くと、俺と餌を見比べた。
「ありがとう」
そいつはひったくるなんてことはしないで、俺の手の下で自分の手のひらを開いた。俺はまるで自分が何かありがたいものを持ってるような気持ちになりながら、餌を離した。すごくおいしいわけじゃないけど、昼間お客さんに向かって一生懸命手を振って集めた餌だよ、これ。
「ありがとう」
そいつはもう一度お礼を言ったけど、またすぐに空のほうを見上げた。俺のことはけろっと忘れてしまった。
「食べないの?」俺はそのまま残って聞いた。「食べない? それ」
そいつは餌のことなんか全然覚えてないみたいだった。たぶん、俺があげたそうだったからもらってあげようと思ったんじゃないかな。ほんとはそんなに欲しくなかったの。俺がまだ近くをうろうろしていると、そいつは、今度は俺のことをじっと見た。俺はなんだかどうしていいか分からなくて「なんでそんなに空見てんの。何がおもしろいの?」と自分も真似して、さっきのそいつと同じ格好をしてみた。かたっぽの膝だけ抱えるような座り方。やってみて、あっと思った。これ、人間がしてる座り方。見たことある。
俺は思い出した。さっきからこいつの目が気になって仕方なかったのは、こいつの目が人間そっくりだったから。
「お前、もしかして人間なの?」俺は聞いた。
そいつは少しだけ黙ったあと、「そうかもしれない」と頷いた。驚いた俺がどういう意味なのか聞き返すと、IQが人間の子供と同じくらいあるんだと教えてくれた。
IQ? IQってなんなのか、俺、知らない。だから「IQって何」と聞いた。
「知能だ」
「知能? 知能って?」
そいつは自分の頭に黙って指をあてた。
「頭、頭なら俺にもある。俺、マゴッチギャオ。お前は?」
そう訊くと、そいつはやっと名前を教えてくれた。ゴードン。
「ゴードンは人間なの?」
「人間にずっと育てられた」
「へぇ、すごいね。人間って優しいの」
「優しい人間もいれば、優しくない人間もいる」
「アッ。それ、俺も知ってる。優しくない人間。たぶんそろそろ来るよ」
急にやつらのことを思い出した俺が、焦ってゴードンの腕を引っ張って立たせようとしたけど、ゴードンは少しも動こうとしなかった。どうしてだと聞いても、何も教えてくれない。俺は座り込んでいるゴードンの後ろに回って、無理やり引っ張っていこうとした。手が何かのせいでぬるっと滑って、どうしてゴードンが動かないかやっと分かった。昼間、仲間に嚙まれた傷。血まみれ。ゴードンのいる位置に向かって風が吹いていたから、俺は匂いに気づかなかった。
「ゴードン、お前、死ぬ?」あれ、死んだフリじゃなかったのか。
「分からない。けど、どうでもいいんだ」ゴードンは落ち着いていた。
「どうして? 死ぬのやだろ」
「いいんだ」
「どうして?」
「ずっと人間に実験されてたんだ。こんなところに入れられて、どうしていいか分からない」
「ギャオたちがいる」
「君たちとは違うんだ」
「何が違う?」
「君からはインテリジェンスが感じられない」
インテリジェンス? 俺、インテリジェンス、知らない。
「どうしても動かないの? ボスがなんとかしてくれるかもよ」
「いいんだ」。ゴードンは苦しそうに息を吐いて、引っ張っていこうとした俺の手をそっと離させた。
「じゃあ、俺もここにいようかな」
俺の独り言に、ゴードンは何も言わなかった。
ゴードンは山の上に寝転がったまま、どんどん弱っているように見えた。俺はずっとゴードンの側に付き添ってた。水や餌も運んだけど、ゴードンはどれもいらないと言って、その代わり俺にいろんなことを教えてくれようとした。
「ギャオ、この地面はコンクリートって言うんだ」
「コンクリート」
「ここは動物園っていう場所で、君らは猿山と呼ばれるところに住んでる」
「ギャオは猿。あそこの塀の上から、みんなが猿だ猿だっていうから知ってるよ」
「そう。ギャオは猿だ」
「ギャオは猿」
「ここは動物園」
「ここは動物園だ」
「あの向こうには何があるか知ってる?」
ゴードンがもうあんまり力が入らなそうな指で、塀のほうをさした。
「人間?」俺は答えた。「あそこからいつも人間がくる」
「あそこには、他の動物たちも閉じ込められてるんだ」
「閉じ込められてる? 他の動物たち?」
ゴードンは脇腹を押さえると、俺には全然分からないことを話し出した。俺は、ゴードンが喋りたいんだろうと思って黙って聞いていた。
「イルカっていう生き物がいる。イルカ。死ぬ前にあれに会ってみたかった。イルカは私たちとは全然別の生き物、水の中にいる生き物で、人間からとても愛されてるんだ。なんでかっていうと─」ゴードンはまた痛そうに顔をしかめた。「なんでかっていうと、彼らは人間と気持ちを通じ合わせることができる。それに口の端がこうぐっと持ち上がっていて、それがいつも笑ってるように見える」
「口の端? 上がってる? こう?」俺は手で顔を動かして、ゴードンに見せた。
「そう、それが笑顔」とゴードンは言った。「笑顔だと人間と気持ちが通じ合う。イルカはどの動物より人間に愛されてる」
俺、ゴードンは人間に愛されたかったんだな、と思った。でも俺、そんなこと思わないからな。人間は餌くれるからいいよ、ってだけ。なんでそんなに愛されたいのかは、あんましよく分かんない。ゴードンは疲れたみたいでまた眠ってしまった。俺はその隣に座ってたけど、段々寒くなって来て、一回寝場所に帰ろうかな、って考えてた。向こうの塀の近くのほうが温かくて、みんなそこで寄り集まって寝てる。こんな山の上のほうでは誰も寝ない。コン、ク、リートしかないし、寒いから。
でもそのとき空から何か降って来て、すごい音とともに辺りが明るくなった。バチバチバチって、耳が痛くなるほどの大きな音。俺、あ、やっぱり今夜も来た、と思った。最近、よく来る。夜になると、あのバチバチする痛いやつを塀の上から何人もの人間が投げてくる。〈鳴き叫べ、猿ども!〉って声がして、俺がいつもみんなと寝てる温かい場所にも、それがいっぱい放り込まれた。バチバチバチが誰かにあたったのか、ものすごい悲鳴がして、みんなが一斉に散らばった。一気に騒がしくなった。俺はゴードンを起こそうとした。
「ゴードン、早く隠れろ。あれ、当たったらすごく痛いぞ。真っ赤になって、治らないぞ」
ゴードンは薄目を開けて、首を振った。
「ゴードン、俺、行くぞ。逃げる」
ゴードンは何も言わなかった。バチバチバチが俺たちのすぐ側に落ちて来る。明るくなった瞬間、空を向いて倒れているゴードンと目が合った。ゴードンは体を震えさせて「行かないでくれ」と俺の手を摑んだ。「行かないで、ギャオ」
俺はゴードンの手を振り払って、逃げた。だってバチバチバチが当たった仲間は何日もずっと顔から赤い肉が見えていた。食い物も食べられなくなっていた。あの、バチバチバチはすごく怖い。ハナビ、って言うんだ。
〈あそこに動けない猿がいるぞ、狙え! 集中攻撃だ!〉
人間から見えない場所まで俺が走ったあと、ゴードンのほうにあの気絶するほど痛いバチバチバチがいろんなところから飛んでくるのが見えた。すごい音。ゴードンの周りが昼間みたいに明るくなる。でもゴードンは少しも動かずに、小さな山の上に横たわっていた。キィイという声がして、ゴードンの叫び声だと分かった。何度も鳴いている。キィイ。キィイイ。キィイイイイ。人間たちは喜んでいた。俺はずっと耳を塞いで何も聞こえないようにしていたけど、今までで一番大きなドン! という音と、人間の嬉しそうな声が耳に入って来て、とうとうゴードンのほうへ戻った。人間は誰も俺のことに気づいていない。もうゴードンだけ狙えればいいみたいだった。
小山の陰まで来ると、ゴードンの姿が見えた。体にあのバチバチバチがいくつもあたって、皮膚がめくれて、いろんなところが真っ黒になっていた。
「よぉ!」俺は離れたところから声をかけた。
ゴードンが俺のほうを見たような気がした。ゴードンは人間に向かって一生懸命笑っていた。歯を出して口の端を持ち上げようとしていた。あ、イルカだ、と俺は思った。ゴードンは心が通じ合うイルカになろうとしてたの。でも人間たちは少しもバチバチバチの手を止めず、次々ゴードンに命中させていった。ゴードンは当たるたび、ぴくぴくと体を震えさせていたけど、そのうち人間が石を投げ出して、俺の頭くらいのやつが腹にぶつかったあと、動かなくなった。ゴードンは、死んだ。
俺たちは人間が帰ったあと、ゴードンを囲んで祈りを捧げた。ボスがそうしていいって言ったからだ。俺たちがみんなで踊って、鳴き声をあげていると、いつものように、さっきのバチバチバチよりももっと明るいけど静かな光が真ん中に集まってきて、ゴードンの体が宙に浮き上がった。ゴードンが目を覚ましたとき、バチバチバチで傷ついた体は元通りになっていた。仲間にかまれた傷もなくなった。この方法はなんでだか、死んだ猿にしかきかない。リンゴやバナナを増やそうとしても、大体はなんにも起こらない。ゴードンが驚いた顔をして、「君たちは死んだものを生き返らせることができるのか」と当たり前のことを聞くから、俺は「そうだよ」と教えてあげた。「それは〈奇跡〉と言うんだぞ」とゴードン。
「そうなの? 俺、〈奇跡〉知らない」
俺たちはまた眠りにつくために、寝場所に戻ろうとしていた。今日はゴードンの他には誰も怪我をしてないみたいだった。
「〈奇跡〉はいつでも起こせるのか」
ゴードンは、俺と入れ替わったみたいに次々といろんなことを聞いてきた。
「どうしてそんなすごい力を使って、ここから外に出ようとしないんだ」
「ここの外に何があるか知らないからだよ」
「知りたいと思わないのか」
「何があるか分からないのに?」
「ちょっと待って。聞いてくれ。君たちの力は─」
「君じゃない。俺にはちゃんと名前があるだろ」
ゴードンはバチバチバチに散々やられたショックで、よく思い出せないみたいだった。ええと、ええと、と何度も呟いている。だから俺は言ってやったの。
俺の名前はマゴッチギャオ。なんでこんな変わった名前なのかは知らないよ。俺、猿だから難しいことはあんましよく分かんないんだよ、って。