【亡霊病】は、その人が人生の中で一番幸せかもしれない、という瞬間にかかる率が高いと言われています。
アタシはそのとき壇上の椅子に座って、真面目な顔で主催者の人の挨拶を聞いていた。両隣には同じようにこのコンクールで入選した人が座ってた。どの人も落ち着いていて、セレモニー後半で回って来るスピーチがちゃんとうまく話せるだろうか、なんて少しも心配していないみたいだった。みんな堂々として見える。今年もっとも輝いた人間、という自信が溢れ出しているように見える。アタシはなんでここに自分がいるのか、まだよく飲み込めていなかった。舞い上がっていて、主催者の人が話している内容の半分も理解できていなかった。こんなに大きなホテルでフラッシュを浴びながら、賞を授与されるなんて経験したことがなかったのだ。
入選した五人の名前が順番に呼ばれ、アタシも他の人の真似をして、自分の名前が告げられたあと「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。審査員長がマイクの前に立ち、コンクールの総評を始めた。まず最初にここに並んだ全員を高く評価します、と会場のみんなに伝えてくれた。
アタシは恥ずかしくて思わず会場を見回した。たくさんの招待客。たくさんの関係者。そこまでたくさんではないけど、大事なアタシの友人たち。お世話になった人々みんな。両親。全員がアタシから見られてるとも知らないで、ぼんやりした顔で座っている。今の言葉、ちゃんと聞いててくれたんだろうか。高く評価しますなんて、今まで誰にも言われたことがなかった。アタシはずっと自分のことを馬鹿で、気のきかないノロマで、夢見がちの世間知らずで、みんなの嫌われ者だと思っていた。嫌われ者は言い過ぎだとしても、好き好んでアタシと一緒にいたいなんて思うはずない。でも、今日アタシはこんなにも堂々と、〝よかったよ〟と認めてもらえた。今まで報われなかった努力を評価してもらえた。
この後のスピーチでアタシはどれだけそのことによって救われたのかをうまく言葉にして、自分にできる最大限の感謝を表すつもりだった。何日も前から寝る間も惜しんで、メモまで作っておいたのだ。式が進んで、高まる興奮を鎮めようと深呼吸をしたそのとき─自分の左手首に【亡霊病】の兆候が出ていることに気づいた。
【亡霊病】の最初の兆候が現れてから、症状はまたたく間に全身に広がります。個人差はありますが、三十分~一時間と言われています。残された時間はほとんどありません。
アタシは息を吞むと、誰にも見られないように握っていたハンカチで左手首を隠し、席を立って壇上を離れた。会場の隅でこの式の進行を見守っている関係者の人に声を掛け、「あの……」と言いかけたけど、唇が固まってそれ以上言葉が出て来ない。おかしな沈黙ができてしまった。アタシの額から汗が吹き出ているのを見て、誤解したその人は「あ、水ならありますよ」と後ろのテーブルに並んでいたペットボトルを微笑みながら差し出してくれた。
アタシは一瞬どうするか躊躇ったあと、それを受け取って、結局何も言わずに席へ戻った。今日という日を台無しにしないためにはどうしたらいいか。そのことしか頭になくて、気分が悪くなったと噓を吐いてここを出て行くべきだったと座ってしまってからやっと気づいた。ここでもう一度席を立てば、きっと誰かが怪しいと感付くはずだ。パニックが起こるかもしれなかった。この病気は人生で幸せな瞬間になりやすい、と誰もが知っているからだ。
公の場で【亡霊病】の兆候が現れたら、すみやかに人気のないところまで移動し、事態の混乱を避けましょう。その際、一部で使われている【悪霊病】という俗称を口にしないよう注意してください。悪霊の祟りでこの病気が空気感染すると信じる人がいます。医学的になんの根拠もないデマですが、集団パニックがしばしば引き起こされます。この病気は症状が進むにつれ外見上に大きな変異が現れるため、「情報のケア」が重要なポイントとなります。
つけてもいない腕時計を覗くふりをしながら、そっとハンカチをずらした。【亡霊病】の初期症状は外見には現れません。やっぱりそうだった。さっきは手首の一部にしかなかった、「自分じゃない感覚」が腕全体まで広がっている。なんでこんなことが。アタシは思わず立ち上がり、自分の目線が高くなったことに気づいてすぐに座り直した。できるなら左腕を丸ごと切り落としてしまいたいと思った。でも無駄なのだ。そんなことはもうとっくに世界の誰かによって試されていた。
「自分じゃない感覚」という自覚症状に続き、以下の身体的変異が周囲にも明確な症状として表れます。
一 体が数センチメートル浮き上がり、秒速十メートルで平行移動する。
二 口からエクトプラズムを吐き出す。
三 壁のような物質を通り抜ける。
四 身体が段々薄くなり、自然消滅する。
五 短時間で性格が変貌する。
※以上のうち、五の「性格の変貌」には細心の注意が必要です。どんなに穏やかで温厚だった人も、静かで理知的だった人も、元の性格にかかわらず醜い顔つきで口汚く暴言を吐き尽くし、家族を始め周囲の人間の心に修復できない傷を残すことが知られています。また、彼らの最後の肉声があまりに苦しげで生々しく悪鬼の様相を示すため、それが患者たちの本性だったのではないか、と疑う人がいます。しかし、今のところ「本性」か「症状」かについては専門家の意見も二分されていて、さらなる研究が待たれています。
やっと審査員長の総評が終わった。一体、どれだけ長々とこの人は話していたんだろう。十分? 十五分? お辞儀をして審査員席に戻っていくのを横目で見ながら、アタシはまだ自分の意識がしっかりしているかどうか、拍手の代わりに手のひらに爪を強く突き立てて確認した。大丈夫。痛みはある。一度だけ、道であれにかかった人を見たことがある。恐ろしいほどの早さで宙に浮いて移動していた。口からびよびよぶよぶよした白いものを吐いていた。自分がもうすぐそうなるなんて、どうやって想像すればいい? アタシには自分がこれから亡霊になる実感が、どうしてもうまく湧かなかった。
「それでは、花束の贈呈です」と司会の男の人が言った。花束の贈呈。今のアタシにはでたらめな言葉にしか聞こえなかった。花束の贈呈。花束の贈呈。アタシたち入選した五人は名前を呼ばれたら「はい」と返事をし、一人ずつ壇の中央へ出なければならないのだ。前の二人が順に呼ばれて出て行くのを見送ったあと、自分の名前が呼ばれる少し前に、下半身に力を入れて勢いをつけて立ち上がった。少しぎくしゃくしながらも中央まで進み、アタシはスーツを着た女性から花束とメダルを受け取ることができた。よかった、誰も変な顔はしていない。
みんなと並んでフラッシュを浴びていると、やっぱり緊張しすぎて、ちょっと自律神経が乱れてしまっただけなのかもしれない、と思えてきた。こんな華やかな場所は初めてだから、身体が一時的に麻痺してしまっただけなのかもしれない。おめでたい席で早とちりして騒ぐなんて馬鹿みたいだ。ほら、笑って。カメラマンの人が「こっちに目線を下さい」と手を振ってる。他の入選した人たちとあちこちに体の向きを動かしてると、アタシだけ「表情をもっと下さい」と言われる。アタシは笑っているつもりだったから、これ以上どうすればいいのか分からなかったけど、言われた通りに精一杯口の端をあげた。でもカメラマンはレンズを覗いたまま「表情をもっと下さい」と言う。深呼吸しよう。……一回。……二回。
撮影が終わったあと、花束もメダルも落とさず、席にどうにか戻ることができた。ほらね。一万人にたった一人の確率なのに、アタシのはずない。なんにもいいことがないまま、それでも真面目にこつこつ生きてきたんだから、【亡霊病】になんてなるはずがない。でも椅子に座った途端、左腕から力が抜けて、花束を持っていられなくなった。胸ポケットにつけていた、受賞者に渡される赤いリボンでできたネームバッジを外すと、アタシはジャケットの下に手を滑り込ませてみた。鎖骨の辺りを右手で押してみるけど何も感じない。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
いよいよ右端の人から順番にスピーチが始まった。アタシは壇上に座り続けた。誰の言葉も耳に入ってこないのに、夢中で他の人のスピーチに頷いていた。体の半分が、ふわふわ別の生きものみたいになってしまった気がする。
患者は病気を隠そうとするあまり、日常と同じ行動を取ろうとすることがあります。【亡霊病】の初期症状は外見に現れませんが、周囲の対処法としては、できるだけこの時期に罹患者を発見することが望ましい。そして可及的速やかに猿ぐつわを嚙ませ、手を縛るのです。何よりも、患者に喋る機会を与えてはいけません。この処置の重要性については、官公庁からもメディアを通じてメッセージが伝えられています。にもかかわらず、いまだ「家族を動物のように扱えない」「非人道的だ」という声が聞かれます。それは大きな間違いです。こういった態度が病気による悲劇を拡大するのです。正しい知識を持つことが大切です。
ああ、家族に確認しておくんだった。アタシも口から血が出るほど縛られて、動物のように苦しまなければいけないんだろうか? それとも何があっても人間として扱ってもらえる?
スピーチ。誰かが喋ってる。こんな名誉なこと、とか、これを励みに、とかそんなこと。でももうアタシは聞いているようにすら振るまえなくなっていた。本当にアタシは亡霊病なんだろうか。時計が見たくてしょうがない。どうしてこの会場の壁には時計がかかってないんだろう。腕時計。今日に限ってしてこなかった。亡霊になるまで、一体あとどれくらいなんだろう。痛みがないから、よく分からない。でもそもそも本当に、本当にアタシは亡霊病なんだろうか。
患者の思考は堂々巡りをします。
隣に座っていた受賞者が、アタシの呼吸が荒いことに気づいたのか「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」と、式の初めに配られた小冊子を口元にあててひそひそと囁いた。「みんな、言うことなんかなんにも考えてきてないんだから」
アタシはそのコーンフレークのような彼女の息の匂いを嗅ぎながら、そうですよね、と掠れた声で返事した。彼女の腕に
やっと一人目の受賞者のスピーチが終わって、アタシは拍手できない代わりに、頭を前後に揺り動かした。いつも、こうだった。アタシは全部後から後悔する。あの時ああしていればよかった、こうしていればもっと─。きっと亡霊になる間際になれば、アタシは生きてきたこと全部を後悔するに違いない。なんであれをしてこなかったんだろう。なんであそこであれを手放してしまったんだろう。なんであのとき楽な道を選んでしまったんだろう。どうせこんなふうに亡霊になるなら、全部一緒じゃないの。苦しくても辛くてもいいから経験しておけばよかった。嫌味や皮肉や愚痴に膨大な時間を使った。あそこに行きたかった。あれを学びたかった。もっと友人と遊びたかった。激しいケンカもしてみたかった。もっと男の人を好きになってみたかった。もっといろんな世界を知りたかった。もっと、もっと、もっと。
アタシは、その後悔が押し寄せて来る一瞬を想像して、胸が張り裂けそうになった。大事な最後の時間を、そんなふうに苦しんでいくだなんて。もし体に痛みがあってもどうでもいい。亡霊になっていくこともどうでもいい。ただ、最後の最後でそんなふうに、後悔にまみれて「もっともっと」と泣きじゃくるのが嫌だった。アタシは会場に視線を泳がせながら、足らない足らないと自分を責めた。
口を塞がれる直前に、患者たちは以下のような言葉を残しています。
「ああ、誰かとこの気持ちを分かり合いたい」
「誰かに抱きしめてほしい」
「(意味の不明な呻き声)」
「この世から消えていく人はみんなこんな気持ちだったのね」
「こんな怖いことに一人で向き合うなんて!」
いつもはスーツなんて着ないのに、一生懸命着飾っている父さんと、きれいにしてる母さんが見える。やっと少しは人に自慢できる子供になってあげられたと思ったのに、やっと三人でどこかへ出掛けたりできると思ったのに、もう二人はアタシのことで笑い合うこともないのだ。初めて親孝行ができると思ってた。アタシの口と鼻から、うえっと何かがこみ上げて、必死でハンカチで押さえておそるおそる開いてみると、エクトプラズムが出始めていた。
エクトプラズムとは、白い、もしくは半透明のスライム状の半物質のことです。
拍手。ようやく隣の女の人が立つ。早く。早く終わって。まだ間に合う。アタシはみんなに最後の肉声を届けることしか考えられなかった。
最も危険なのは、「その時」が来るギリギリ直前なら、本当の思いをまだ届けられるという、甘い考えです。
みんながアタシのことを何も知らないまま─亡霊のほうのアタシが本物だと思い込んだまま生きていくなんて耐えられない。まだ何も伝えてない。
アタシの体はもうほとんど動かなかった。胸から上だけがかろうじて自分の意志でどうにかなるだけだった。肺が苦しい。アタシは咳払いをし、目だけで壇上の進行役の男の人にトラブルが起きたことを伝えると、唇の動きが一度で読めるように彼に向けて大きく顔全体を動かした。〝マイク。マイクを持って来て。動けないの。マイクを〟
男の人がはっとした表情になって、まさか、とアタシの目を覗き返して来た。そうだ、と苦しげに小さく頷くと、彼がとっさに腰の後ろ辺りに手を当てたので、アタシは頭を思いきりかち割られたような気持ちになった。そんな。彼はロープを持っている。アタシみたいな人間が出たときのためにちゃんと用意していたのだ。
彼は緊張した表情で、二度三度、マイクの前でスピーチしている別の受賞者に視線を走らせた。アタシは痺れのような心地よい感覚が段々と首のほうまで上がってきているのを感じながら、必死に彼へ自分の気持ちを届けようとした。大丈夫。必ず間に合わせるから。少しだけ、ほんの少しだけ人間として言葉を話させて。せめて人間として最後に何かを残したいの。このまま亡霊になるのは嫌。何かを残したい。ねぇ、誰だってそうでしょ? 自分が確かにこの世に生きていたという証しみたいなもの。それとも、そんなものは初めからどこにもないの? みんな、最後は亡霊のようにきれいに消えてなくなるだけなの? アタシだけじゃなく、ここにいるみんな─。
男の人は腰に手をかけたまま、小さく首を横に振った。すごい、はっきりと〝ノー〟だ。亡霊になる者に少しも同情はしないってわけね。冷酷。笑えるほどだった。
患者の発病に気づいたにもかかわらず見過ごしたとして、知人の男性が保護責任放棄罪で、患者の家族から訴えられたというケースもあります。
アタシはあの女の人のスピーチが終わった瞬間、口を血が出るほどきつく縛られるんだろう。あのロープのようなものは、ちゃんと医療用の、国で推奨しているやつだろうか。口の端がなるべく裂けないようにソフトな素材がいい。痛みなんて関係ないと思ったけど、やっぱり最後のときくらい血が吹き出るような思いはしたくない。アタシは充分、いろんな悩みや苦しみと葛藤してきたのだ。ずっと辛さに耐えているようなものだった。空気を吸っているだけで吐きそうになるほど、生きづらくって、誰にも認められず一人ぼっちで、たまに本当に消えてしまいたくなるほど自分のことが愛せなかったけど、それでもなんとか生きてきたのだ。毎日が嫌だった。でも今日、やっと、やっと、世の中もまんざら捨てたもんじゃないと思えそうだったのに。ソフトな素材がいい。どこの誰がこんなひどい人生を見て喜ぶのか分からないけど、アタシがもうこれ以上苦しむ理由はどこにもないはずだった。アタシは最後までちゃんと生きることに耐えたのだ。ソフトな素材を用意して。
父さん、母さん。アタシは二人を見た。何も知らないで、次のアタシのスピーチがうまくいくか、そわそわしながら待ってる。アタシは亡霊になった自分の言葉に、あの二人が傷つかないことだけを願った。どうか惑わされないでほしい。もしかしたらあまりに生々しい肉声で、今まで言えなかった本音も混じっているのかもしれないけど、アタシはアタシに生まれてこられてよかったと本当に思ってる。生きづらい部分もあったけど、二人のことはもう恨んでない。それに─それに、今はそういう感情全部が通り過ぎていこうとしていた。さっきまであった恐怖や不安が、すごい勢いで薄まり始めていた。このまま身を任せてしまってもいいんだろうか。本当にこのまま楽になってしまってもいいんだっけ。もういいはず。誰かがお疲れさまと言ってくれているのだ。
アタシが力を抜きかけたとき、右隣の男の人が床に落ちていたハンカチに気づいて、「はい」と膝の上に乗せてくれた。アタシは─アタシは最後の力を振り絞って、そのハンカチを膝から払い落とした。右隣の男の人はもう一度拾ってくれたけど、アタシはそれもまた払い落とした。本当はまだ諦めたくなかった。本当は消えてしまいたくなかった。嫌だ。アタシは亡霊になりたくない! 亡霊になんかなりたくない! お父さん、お母さん!
でも─そこまでだった。やがて、どれだけ力を振り絞っても小指すら動かせなくなった。まだやりたいことがたくさんあったのに、時間は残されていなかった。お父さんとお母さんに伝えたかった。大人になって一度も本音を言わなかったことや、二人は生きてるんだからやりたいことがあったら、すぐにでもしたほうがいいよという話。二人には幸せになってほしいという話。お父さん、お母さん、本当にありがとう。アタシを疑わないでね。亡霊の言葉なんか信じないで。お父さん、お母さん。ありがとう。心配しないで。心配しないで。思ったより怖くない。
顎のすぐ下まで麻痺が始まってる。アタシは友人たち、お世話になった人たち全員に心の中でお礼をして回った。終わるとあとは何もせず、思ったより怖くない、と繰り返しながら、自分の体が亡霊になるのを待った。会場の小さな窓から、昨日までと少しも変わらないみたいに、晴れ渡った空が見える。足が椅子から少しずつ浮き始めた。前の人の長かったスピーチが終わって、会場に大きな温かい拍手が起こった。包み込まれるみたいに力が抜けていく。アタシは嚙み締めた。人生で、一番、幸せな日。
症例・六
A子さんは贈呈式の最中に、発病しました。司会者が気づいたときには症状はすでに現れていて、宙にほんの少しだけ浮き上がった状態のままA子さんは凄まじい早さで壇上中央のマイクの前まで移動しました。亡霊病では理性的な言語機能を早い段階で喪失してしまうのですが、別人のような顔つきで患者がスピーチを始めたこのようなケースは例外と言えます。エクトプラズムを吐き出し続けたまま、A子さんのスピーチは約一分ものあいだ続きました。周囲への感謝の言葉から始まりましたが、段々失言や暴言が混ざり出し、やがてその場にいたすべての人に悪夢として記憶される