嵐のピクニック (講談社文庫)

本谷有希子



「食べな。これ、すごくおいしいんだ」

 屋根がある駅前のバス停で雨宿りしながらお母さんを待っていると、傘を持ったおじさんが、そう声をかけてきた。

 いつのまに隣にいたのか、ぼろぼろの服を着たおじさんは人なつっこい笑顔で、僕に袋に小分けになったお菓子を差し出し、お腹すいてるだろ、食べな、これすごくおいしいんだ、とまた言った。

 巨大な台風が直撃していて、凄まじい風が耳のすぐ横で唸ってるのに、おじさんの酸っぱそうな臭いを嗅いだ気がした。

 僕は「わぁ。クッキー!」と子供らしく受け取った。緊張しながら食べるふりをしてそのクッキーをこっそり握りしめていると、おじさんが駅から伸びる広い道が細い道と交わる交差点を指さして、急に言ったのだ。ああいう人たちを馬鹿にしちゃいけないよ、って。

 おじさんの指の先には、嵐の中、傘をさして必死で信号待ちをしているスーツを着た男の人がいた。

 僕は顔には出さなかったけど、なんで考えてることが分かったんだろうと怖くなった。僕はさっきからずっとそういう人たちを何人も眺めて、おもしろがっていたのだ。

 テレビの台風中継を見るたび不思議だった。この人たちって、ほんと何考えてんの。洋服も、髪の毛も、たぶん靴下まで全部濡れてるのに、ほとんど閉じてしまう寸前まで傘をすぼめながら一心不乱に歩いて、オツムが弱いんですかね、大人のくせに傘教の信者ですか? って感じで。でも、そういう気持ちは今まで誰にも言ったことがなかったのだ。

「見てろ、もうすぐ骨だけになるから」とおじさんが言った。なんのことだか分からなかった。でも、その口調が船長みたいに力強かったから、僕はおじさんのごつごつした指の先にいる、交差点脇のガードレールにしがみつくスーツの男の人に目をやった。さっき僕も横殴りの雨を受けながら、風に押されて車道に出てしまいそうになった場所だ。あそこは交差点だから、強風がもろに吹き込んで来る。

 3! 2! 1!

 おじさんの叫び声とともに男の人の傘があっという間に茶碗みたいに逆さまになり、ナイロンの布地ははぎ取られて、傘の骨が剝き出しになった。僕は声が出せなかった。本当に掛け声とぴったり同時だったのだ。

 こんな人にかかわっちゃいけない。頭では分かっていたのに、僕にはおじさんの汚い格好やひどい臭いがあまり気にならなくなってきていた。おじさんがもう一つクッキーの袋をくれて、僕は走り出そうか迷ったけど、受け取ってかじる演技をした。そんな僕に気づかず、おじさんは「話を聞きたいか」とどこか遠くのほうを見ながら呟いた。僕が黙っていると、おじさんは勝手に語り出した。深い森の奥地にすむ小さな男の子が、外国人が村に持ってきた一本の傘をもらうために何をしたのか、という話だった。

「木の枝でぶち合ったんだ」と、おじさんは言った。もつれた長い髪の毛が風のせいで、おじさんの顔を回りから食べているみたいに見える。

「木の枝?」

「そう、その村には昔から年に一度だけ、木の枝で順番に相手をぶっていく大人の男だけのしきたりがあったんだよ。それで村長が一番最後まで声を漏らさなかった男に、傘をやるって決めたんだ。村人みんな、傘が一体なんのための道具なのかまったく分かってなかった。自分たちと同じように、外国人がこれで人をぶつんだろうと思ったのさ。雨に濡れたくないなんて誰も思わなかった。その村では雨は森の精霊が降らせていて、自分たちが死んだあと虫に生まれ変わるために必要なものだと言い伝えられていたからな。人間は虫に生まれ変わるんだよ、その部族の言い伝えでは」

 虫の卵みたいな小さな粒々が密集しているのをじっと見たときにそっくりの、ぞぞっとしたものが背中を這い上がって来た。森の精霊、という言葉を聞いた途端、僕は急におじさんの横にいることに怖さを感じて焦り始めた。もしかして今ってすごいヤバい状況? おじさんの握りしめた、尖った傘の先がさっきよりずっと気になる。もらったクッキーを見つからないうちに慌ててズボンのポケットにつっこんだ。おじさんは相変わらず髪の毛に顔を齧られながら、喋り続けていた。

「男の子は傘がどうしても欲しくて、村の男たちが互いを木でぶち合うしきたりに子供として初めて参加したんだ。そして、相手の大男にどれだけぶたれても、とうとう一言も声を漏らさなかった。小さな男の子が、一言もだぞ。相手の大男が腕の痛みにうめき声をあげてぶつのをやめたとき、男の子は倒れて動かなくなった。死んでしまったんだ。どうしてそこまでして男の子は傘が欲しかったのか分かるか?」

 突然そう聞かれて、僕は慌てて「あ、分かんないです」と首を振った。

「傘で人が飛べると思ってたんだ」

 話が終わったらしくてほっとするのと同時に、おじさんの答えに、僕は少しだけがっかりした。おじさんの話に何かもっとエッジの効いた、イケてるオチがあるんじゃないかといつのまにか期待していたのだ。お母さんはまだだろうか、どうやってこのまま安全にこの場を離れようかと考え始めていると、おじさんはまた傘を必死にさしているさっきとは別のずぶ濡れの男の人を指さして言った。「あの人たちも、みんな未だに信じてるんだ」。さっきと同じようにおじさんが3、2、1と数えた瞬間─僕は自分の目の前で起きたことが信じられなかった。

 傘をすぼめてよろめいていた男の人が、ガードレールを踏み台に思いきりジャンプしたかと思うと、そのまま風に乗ってあっという間に空高く舞い上がったのだ。

「やったな!」とおじさんは空を見上げてガッツポーズした。「あいつは腰がしっかり低く入ってたから、やるんじゃないかと思ってた!」

 僕はスーツの人が飛んでいった方向を、バス停から顔を出して慌てて確かめた。目に入って来る髪の毛や雨水を払いながら必死で探してみると、黒い雲のあいだに小さな人影がいくつも浮いていた。僕は口を開けたまま、瞬きすることもできなかった。みんな傘に振り落とされまいとなりふり構わずしがみついている。五十人か、百人か、それ以上。

 おじさんはそんな僕のすぐ後ろにいたはずなのに、我に返って振り向いたときには、もうどこにもいなかった。いや、バス停にはいなかった。

バイビー!」。そう頭の上のほうからはしゃいだおじさんの声がした。「バイビーバイビーバイビー!

 あれから僕は台風中継で、傘が骨だけになる瞬間を繰り返し映されるずぶ濡れの人を見ても、滑稽だとか、頭悪いんじゃないですかね、なんて思わなくなった。嵐の日に傘を意地でもさそうとしている人に道ですれ違っても、彼らは僕なんかよりずっとセンシティブで、大きなことに挑戦しようとしている勇敢な人間だと思った。いつか、僕もしらけた顔で台風の日に雨宿りしている男の子を見つけたら、話しかけてあげたい。このクッキーすごくおいしいから食べなって。

 おじさんにもらったクッキーを、帰り道おそるおそる口に入れてみてびっくりした。本当にすごくサクサクで、それまでの十一年間に食べたクッキーの中で一番おいしかったのだ。

 おじさんは次の日、隣町で潰れて発見されたけど、今でも僕は飲み会で、なんか楽しませろよと言われるたび、必ずこの話をする。うまく最後まで聞かせられれば、「バイビーバイビーバイビー!」のくだりで大盛り上がり間違いなしだ。

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