嵐のピクニック (講談社文庫)

本谷有希子



 わけを尋ねても、とにかく決闘するとしか言わないので仕方なかった。何度考え直してくれるように頼んでも無駄だった。付き合い始めた頃は、僕の恋人になれるなんて信じられないと毎晩電話してくるような子だったのに。思いきり抱きしめたら折れてしまいそうな華奢な体の恋人に決闘を申し込まれるだなんて、僕は激しいショックを受けた。

 もう話は終わっただろうと言わんばかりに彼女は立ち上がると、場所は河原でいいかと訊いた。「なんで急に」僕は泣いた。「せめてもっとロマンチックなところで」。

 彼女は黙り込んだあと、僕たちの思い出の場所を挙げ始めた。遊園地。映画館。変わったブランコのある公園。動物触れ合い広場。お互いの両親の家。出会った大学の中庭……。「河原でいい」と僕は言った。彼女はあんまり遠いと車で出掛けなきゃいけないし、そうなると行きはいいけど帰りが困るよね、と頷いた。車が運転できるのは僕だけだからだ。

 今すぐにでも決闘したいと言うので、二人で借りている部屋を出て僕らは歩いた。夜にしないかという提案は却下された。河原でちょうどいい場所を探しているあいだにも彼女のテンションはどんどん上がっているらしく、横顔をそぅっと覗き込むと、唇がめくれ上がって歯がむき出しになっていた。彼女がこんなに僕と闘いたくてたまらなかったなんて知らなかった。

「わけを教えて」と僕はまた泣いた。

 彼女はハァッハァッハァッハァッと息を切らしている。

 土手の向こうから僕と同じように泣きべそをかいた男の人が、彼女に連れられて歩いてきた。一瞬、大きな鏡が出現したのかと思った。僕の彼女とどことなく似た雰囲気の女の子。チビなのに生意気そうで、魅力的な顔つき。男の人のほうも僕と似たタイプだった。おどおどして、色が白くて、覇気のなさそうな顔をして。

 すれ違うとき、僕はぎょっとした。女の子の手に犬の散歩用のリードらしきものが握られていたからだ。その先は男の人のシャツの襟の下まで伸びていた。見ないふりをしようと思ったけど、気になってどうしようもなかった。襟の下の首輪らしきものに何度も目線を送ってしまう。

「そっちに、いい場所はなかった?」

 僕の好奇心に気付いたのか、女の子が僕の彼女に声をかけてきた。私たちも今家から出てきたばかりでなんとなく川の上流に向かっているだけなの、と僕の彼女はハァッハァッハァッと息を切らせながら答えた。私たちも、とその子も顔見知りみたいに頷いた。たまたま下流に向かって来てみただけなのよ。彼女たちが少し離れた場所で情報交換を始めてしまったので、僕たち男同士もなんとなく話し合ったほうがいい雰囲気になってしまった。

「こんにちは」と僕は頭を軽く下げてみた。

 一瞬言葉が通じないんじゃないかと思ったけど、首輪の男の人はこちらの乾きかけの涙を見て「あなたも?」と案外まともそうな声を出した。眼鏡をかけていて、スーツにもっとちゃんとアイロンがかかっていればしっかりしたビジネスマンに見えるだけに、どういう態度を取ればいいのか余計分からなかった。女の子が向こうに離れた分だけたるんでいたリードがぴんと張って、襟の下に隠れている首輪がいよいよ無視できなくなった。

「何がですか?」男の質問に僕はとぼけてみた。

「あなたもでしょう」と彼は言った。

「だから何が」

「申し込まれたんでしょう決闘」

 僕は驚いて、思わず彼女たちのほうを振り返ってしまった。ということはあの子も今から?

「シッ。何も話していないふりをして!」

 彼は僕の顔を覗き込んだまま、目をそらさずに厳しく注意した。意外と鋭い声。首輪なんてしているけど、もしかしたら会社では立場のある人物なのかもしれなかった。

「私たちのせいなんですよ」

 カモフラージュのつもりなのか、彼は顔の他の部分が全部固まってしまったみたいに口だけ動かしてすばやく喋った。正直、怖くて仕方なかったけど、彼の真剣さに気圧された。あなたたちの? と聞こうとしてやめたのは「私たち」という言葉の中に、僕も含まれているような気がしたからだ。

 僕が黙り込むと「あなたも物足りなかったでしょう?」と男は付け足した。

「私たちみたいな男の願望のせいで……」そこまで喋ったとき、リードが勢いよく引っ張られ、彼は目からめいせきさをこぼしたかのように失うと、とぼとぼと彼女の背中についていった。

 そのあとも、同じような男女に何組も出会った。男たちは全員重大な罰を受け入れたみたいにうなれ、悲しげな表情をして彼女の三歩後ろを歩き、すれ違う僕にこっそりと目だけで合図を送ってきた。

 彼女たちは全員、よだれを垂らし始めていた。前を歩くあの子の顔は見えなかったけど、じゅるじゅるっという水っぽい音がときたま聞こえてきたから、似たようなことになっているんだろうと予想はできた。彼女の体がさっきより大きくなっている気がする。デートに何度か着ていたお気に入りのワンピースがきつそうだ。ハァッハァッハァッハァッと漏らしていた息は、短くどんどんリズミカルになってきている。ハッハッハッハ。背骨もバネが入ったみたいに丸まり始めてる。姿勢がよくて、靴から前髪まであんなにおしゃれに気を遣っていた子だったのに!

「僕のせいで─僕のために?」

 質問したけど、彼女は鼻をくんくんと斜めに突き上げて、風上から何かを嗅ぎ取っている。もうほとんど口もきけないみたいだった。意を決した僕は前に回り込むと、恋人を正面から見つめてみた。殴られるより衝撃を受けた。垂れ気味だった目はきつく吊り上がって、まつげは信じられないくらいふさふさに増量していた。目のキワをぐるっと取り囲むように黒いラインが皮膚から染み出ていて、こちらを睨みつけるようなゾクゾクする眼差しに変わっている。なんという挑発的な表情。口元も。最初は彼女が唇を嚙んで出血してしまったのかと思ったけど、そうじゃない。ほんのりピンク色の部分が、どんどんどぎつい赤色に染まり始めているのだ。僕は思わず指を伸ばして、彼女の唇を擦った。指先を確かめてみると、それはルージュだった。唇からルージュが湧き出している!

 彼女がおかしな仕草を始めた。まるで持ち上がろうとする顎を、必死で抑え付けているように見える。「顎をおろしたいの?」と僕が訊くと、彼女の目がそうだと訴えた。僕は彼女の小さな顎を壊してしまわないように人差し指と親指を使って、せぇの、と何度も元に戻そうとした。でも顎はツンと上向きで時間をとめられたように固まってしまっていて、手の施しようがなかった。それは彼女の美しい首が強調されて、小顔が一番魅惑的に映える僕の最も好きな角度だった。彼女が鳴き声のような悲鳴をあげた。

「今度は何?」

 彼女が自分のスカートの裾を地面のほうへ引っぱり出したので、僕も一緒になって摑んだ。膝あたりの丈だったワンピースのスカートがものすごい力で短くなろうとしている。靴の底からは鋭いピンヒールが生え始めている。

「僕はそんな男じゃない」苦痛に顔を歪める彼女に、僕は首を振った。

「お前が望んだからだろう、言い訳するな!」

 知らない男の野次が飛んできて石が顔の脇をかすめていった。声のしたほうを見ると、老人が、膝よりもずっと丈の短いスカートに網タイツを穿いたおばあさんに河原でじりじりと距離をつめられているところだった。

「こんなことが、なんで急に!」

「急なものか。地球に人間が誕生してからずっと、いつこうなってもおかしくなかったさ」

「そうだ!」とまた後ろのほうから声が聞こえた。今度は警察官の制服を着た女の子に睨みつけられたまま尻餅をついている若い男だった。「生意気な恋人を、僕たちみんなが望んだんだ!」

 彼女たちは一足先に、みんな変わってしまったみたいだった。どこを見渡しても、信じられないほど絶世の美人だらけだった。僕は彼女の唇にどんどん染み出してくるルージュを拭い続けながら、まだかろうじて原形を留めている恋人に向かって言った。

「君が、僕の前の彼女のことで悩んでたのは知ってるよ。確かにあの子と一緒にいるとスリルがあって毎日ハラハラしたけど、彼女のことなんかとっくに忘れてしまってたんだ。君のことが物足りないなんて、誰かの流したひどい噂なんだよ」

 彼女の黒く縁取られた目が、僕の言葉を聞いて、大きくなった。やっぱり彼女は不安がっていたんだ。本当は決闘なんかしたくないんだ。僕はルージュを拭い続けた。「だから変わらないで。僕はそのままの君が好きだよ」

 唸っていたおばあさんがあの老人に飛びかかった。老人は後ずさって悲鳴をあげながら土手を転がっていった。

 後ろの恋人たちも始まったみたいだった。僕らは手を繫いで再び土手を歩き出した。高くて細いピンヒールが靴の底から生えた彼女は、僕よりずっと荒々しく、早く動けるらしかった。彼女の手の力もどんどんと強くなった。僕の指は何本か折れてしまっているかもしれない。時々立ち止まり、僕は必死にルージュを拭い続けた。

 彼女はもう息を切らしてはいなかった。その鼻筋は夕日を浴びながら美しくなっていった。ぞくぞくする目。ツンとした顎。今まで見た中で、彼女は誰よりも素晴らしい美人だった。僕は片時も休まずルージュを拭い続けた。でももう間に合わない。泣きながら「ごめん」と謝った。

 橋に辿り着く前に、その光景は見えてきた。決闘と言えば橋の下。数百組の男女の壮絶な取っ組み合い。遠くまで響き渡る雄叫び、絶叫、武器のぶつかり合う音、もう言葉が通じない恋人への命乞い、愛の告白─。

「そのままの君でいて。そのままの君が好きだよ」

 彼女が何も答えないので、河原に立った僕は泣きながら、足元にあった棘のついた鉄球を死にものぐるいで振り回した。彼女が高くジャンプし、それを軽々と避けたので、僕は鉄球を投げ捨て、川に逃げた。腰まで水に浸かった彼女が、人間とは思えない早さで追いかけて来る。川を渡り切るすんでのところで、彼女が後ろから僕の髪の毛をわし摑んで思いきりひき抜いた。あまりの痛みに喚きながらもなんとか岸に上がった僕は、ぶつかってきた男の手からスタンガンを奪い取った。振り返ると、すぐ側に彼女が見たこともないような激しい形相で迫っている。僕はスタンガンを彼女の脇腹に押しあてて放電した。彼女は大きく目を見開いて、あとずさった。僕はスタンガンを必死で押し付け続けた。彼女の体がぐらりと後ろに倒れかける。僕がもう一度スイッチに手をかけたとき、彼女は「やめて」と弱々しい声を振り絞った。「やめて。お願いします。助けて」

 僕は涙を流しながら、見知らぬ男を足蹴にしてもぎ取ったこん棒で彼女の頭を殴りつけた。何度も何度も振り下ろしていると、彼女はそのまま水しぶきをあげて後ろへ倒れ、ゆっくりと川を流れていった。

 帰り道、僕は二人のいろんな思い出の場所を呟きながら歩いた。「遊園地。映画館。変わったブランコのある公園。動物触れ合い広場。お互いの両親の家。大学の中庭……」

 あのとき、本当は彼女がわざと負けてくれたんだと僕には分かっていた。「そのままの君が好きだよ」という僕の言葉が、彼女の心に響いたんだ。涙が止まらない。息絶えているさっきの老人の脇を通り過ぎながら、僕は鼻水をすすり上げた。なんて優しい彼女。君を失うなんて、死んでも考えられない。

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