嵐のピクニック (講談社文庫)

本谷有希子



 なんでこんな女に関わってしまったんだろう。彼女のことを好きになったのは、たった一人で悪の組織と闘ういたいけな女の子だと思ったからで、こんな激しい恋愛に巻き込まれるつもりなどなかったのに。

 彼女は「私のことを理解してあげられたらどんなにいいか、と言ったでしょ」とまたにじり寄ってきた。確かに言った。でも俺は三十四歳だ。そんなにも歳の離れた子の気持ちなど分かる自信もなかったし、俺は女のことは何も分からん。身内を全員悪の組織に殺されてしまった彼女が寂しすぎるだろうと思って、ついそう声に出してしまっただけだ。そんなものをいちいち真にうけんでくれ。

 つい今しがた、十九人の悪の手下たちの頭を吹き飛ばしたばかりの彼女が一歩ずつにじり寄ってくる。その姿を、あとずさりしながら俺は見つめた。彼女の目から血の涙が流れているのは、大好きな父親までついに人間の所業とは思えないむごたらしい方法で殺されてしまったからで、その特別な涙こそが彼女の狙われる理由らしかった。詳しいことはよく知らん。俺は女の子のスカートから出てる太ももがいいと思っただけだった。ピンク色の髪の毛も、エメラルドグリーンの目のことも、異常だと言われれば異常だけども、深くは考えなかった。そもそも女は最初から、自分とは別の生き物だと思っとる。外の世界に興味を持ったことがほとんどなかったから、そういう女もいるのだろうと思った。俺みたいのを世間知らずと言うんだ、と親父なら泣いて溜め息を吐くだろう。俺の母親はとっくの昔に、俺と親父を置いて出て行ったから、俺には親父しか話をする人間がおらん。

 あとずさりし続けていると、リビングからいつのまにか廊下に出て、階段の段差が足の裏に当たった。彼女の家はばかでかかった。去年、いつのまにか俺の実家の隣に越して来た彼女は、父親と五人の弟とひっそり暮らしとったんだ。


 この高い塀に囲まれた大きな家で、買い物なんかはすべて彼女の父親がやっていたみたいだから、最初はまったく俺と同じ境遇の人間があの家にもいるんだと嬉しくなった。他人には滅多に興味をもたない俺が、窓からちょこちょこ観察していると、彼女がまだ小さい五人もの弟たちの世話を甲斐甲斐しく焼いているのが見えて、俺はさすがに自分のことが嫌になった。俺はすべて親父に身の回りのことをやらせとる。親父のことは親父がやる。

 やがて彼女がなぜ家の外に出ないのか、不思議になった。それに五つ子のようにそっくりだった弟たちが、ゆっくり一人ずつ減っていることにも気づいた。

 庭で遊ばせていた男の子がいつのまにか四人になって、三人になって、二人になっていくんだ。小さい弟たちは無邪気に庭を走り回って遊んでいたが、誰かが一人いなくなった次の日には大抵、親父さんが寄り添うようにベランダの椅子に座る彼女の手を握ってやっとる。いつも生足太ももの彼女も、そのときばかりは沈んだ顔で黒い洋服に身を包んでいた。なぜ葬式もせん。なぜ警察が来ん。

 俺はある晩、チビの一人が悪の組織の人間にさらわれようとしているところを見てしまった。それが悪の組織だと分かった理由は、そうとしか思えん格好をやつらがしとったからだ。黒ずくめ。マスク。マント。彼女の親父さんは銃で、彼女は映画の中でしか見たこともない恐ろしい形の刃物を振り回して、広い庭でやつらに応戦しとった。この辺りの人間は、すぐ近所にどでかい球場があるから、発砲や、大抵の騒音では誰も騒がんのだ。耳が馬鹿になっとる。俺は彼女の人間とは思えない身体能力に驚いた。親父さんのほうは武器を手にしている人間というリアリティがまだあったが、彼女のほうは蛸のような身のこなし、武器の刃さばき、すべてが、尋常一様じゃなかった。そのときに彼女が、普通の女とは違うと気づければよかったが、俺は、ほれ、父親以外の人間を知らんから。

 その日は弟を連れていかれずに済んだが、また何日かすると、やつらは再びやって来て、むごたらしい方法でチビを吊し上げ、殺してしまった。俺が初めて彼女の血の涙を見たのはそのときだ。彼女を押さえ付けた組織の連中は、何かカプセルのようなものに涙をスポイトで注入すると、猛然とマントをひるがえし、家の裏の林のほうへと去っていった。庭には弟の死体と、何人もの敵の死体と、芝を握って座り込む彼女の姿。そして、そっと肩に手をおく彼女の親父さんの姿。

 そういう光景を目撃してきて、俺は彼女がなんらかの理由で狙われとって、おそらくどこへ逃げても必ずやつらが現れるから、ここでなんとか決着をつけようとしとる、そういうところまでは事情が飲み込めて来た。

 組織の人間が、なんで彼女を連れて去らないで律儀に一回一回襲ってくるのか、とか、弟をシェルターみたいなところで守るわけにはいかんのか、とか、いろんなことがなあなあのお約束になっとる、とは思ったけど、俺はほら、そういう細かいことはあんまり気にならんタチなもんで。

 とは言え俺が気づいていたぐらいだから、彼女も気づいとっただろう。弟たちが全員殺されたあとは、親父さんが狙われるということに。二人きりになった彼女と親父さんは今までにも増して傭兵のように武器を揃えたし、いつでも警戒を怠らんかった。ここから逃げなかったのは、もしかするとアジトの分からん悪の組織を、親父さんでおびき出して根絶やしにするつもりだったのかもしれん。気の遠くなるほどの闘いを毎日繰り返して、彼女たちは組織の人間の死体の山を積み上げていった。だが、今日までだった。親父さんがとうとうやられた。

 いつものように涙を一滴だけ取って、組織の人間は去って行った。彼女はいつまでも庭の芝生の上で泣いとった。これまで自分の手を握ってくれた親父さんも今はもう木っ端みじんに吹き飛ばされてしまった。それがどれほど彼女の心へダメージを与えたかを見ていた俺は、人に感情移入などほとんどせんが、このときばかりはサンダルをつっかけて、いつも見ていた豪邸の庭まで行ってみようかという気分になった。闘いの最中に壊された塀の一部から敷地に入ってみると、彼女の座っているところ一面が真っ赤に濡れとる。これが、悪の組織に狙われるほどの力を持つ涙か。

 近づく俺などまったくどうでもいいかのように、彼女は顔をあげようともしなかった。俺はこういうとき、何をすれば女が泣き止むのか知らん。上擦りそうになる声で、とりあえず「元気をお出し」と言った。そして、とうとう身寄りのなくなってしまった彼女の辛さがどれだけのものなのか少しは分かる、とも言った。自分には老いぼれた親父しかおらんことも。

 俺はこの女のことを好きかもしれん。彼女が顔を上げた瞬間、その頰に伝う赤い涙の滴に心を奪われて、これからは自分が親父さんの代わりに彼女の右腕として生きていく決心がついた。俺に銃は使えないからせめて車の免許でも取ってみようか。バイトすらしたことのない、この俺がそんなことまで考えとる。巷で聞いたことのある、無償の愛というやつだ。今度から俺がやつらに狙われることになるだろうが、わずかなあいだでも彼女の側にいられるのならそれも構わん。俺の中におそらく初めて生まれた、愛。そのことをそのまま彼女に伝えた。他人に共感などしたことはないが、特別な力を持った彼女の孤独を、俺なら理解できるかもしれん。いろんな面倒なこともあるだろうが、うちには、ほれ、老いぼれがおる。

 すると、今まであれだけ動こうとしなかった彼女が立ち上がった。「愛?」と彼女は小さな顔をかしげながら近づいて来た。「愛?」「愛?」。彼女は繰り返した。

「だったら、この事実を聞いても私を受け止められる?」。なぜ彼女が自分を助けようという男に、そんな攻撃的な口調を使うのか分からんかったが、混乱しとるんだろう。俺は「何を聞いても平気だ」と平静を装って大人の男らしく頷いた。家を覗いていたことは隠していたが、彼女はもしかすると俺の存在にとっくに気づいていたのかもしれん。

「こんなことになったのは全部私のせいなの。私のせい」

 何も言えない俺の目の中を確認して、彼女は語り出した。

「十歳の頃、お母さんは、私がお父さんを独り占めしようとしてるって気づいたの。そのことを何度もお母さんは訴えたけど、でもそれは馬鹿馬鹿しいことだよってお父さんにたしなめられてた。何をムキになってるんだ。まだ子供じゃないかってね。

「でもお母さんの勘は当たってたのよ。私はお父さんを奪うつもりだった。私はあらゆる噓を使って、二人の仲をぎくしゃくさせた。二人はすごく仲のいい夫婦だったけど、お父さんは最後まで子供を疑うのはよくないって私のことを信じてくれた。お父さんは真実がなんなのかちっとも知ろうとしなかった。子供がピュアだと思いたかったんだね。自分の十歳の頃のことを少しでも思い出せたら、そんなことありえないって分かるはずなのに」

 彼女が小さな両手を伸ばして近づいてきた。嬉しいはずなのに、俺の体はなぜか強ばって逃げ道を探しとる。

「お母さんは苛ついて、すっかりヒステリックになってしまった。いつまで経っても私が悪い子供だと証明することができないから、ついに声を荒らげて手をあげた。私はそのときを待ちわびてた。派手に転んで車道に飛び出した。病院に運ばれて、頭を十何針も縫ったけど、それでもうお母さんは法的に二度と私に会うことはできなくなったの。お母さんの優しいところが大好きだったお父さんは離婚して、私と暮らすようになった。分かる? 私、すごく悪い子供だったの。

「それで、お母さんは悪の組織に入ったの。法律より強いものを求めずにはいられなかったんだね。私に苦しみを味わわせるために、きっとお母さんはあらゆる殺人術をマスターしたんだと思うな。だって知ってるでしょ? 弟たち五人の、芸術みたいな、素晴らしい殺し方。あれは本当に殺しが好きか、よほどの執念がないと無理」

 反応する間もなかった。「あの弟たちは弟じゃなくて、私とお父さんのあいだにできた子供。病院にもいけないから、全員私が家の台所で一人で産んだ。三つ子が産まれたときはさすがに、びっくりしたけどね。だから、これは正義のための闘いじゃないの」。彼女はやっと言葉を区切った。「ものすごく個人的な話なのよ」

 俺は固まりそうになる舌をかろうじて動かして、やつらは涙を集めとるんじゃないのか、と尋ねた。何か特別な力があるんだろう、その血の涙に。

「涙? さぁ」と彼女は小首を傾げた。「涙に力なんて何もない。ただお母さんが集めたいだけなのよ。私を苦しめた分だけ一滴一滴」

 どうやら俺は勝手な勘違いをしとったようだ。彼女がまだ少女でピンクの髪というだけで、正義のために闘っとるけなげな子だと思い込んどった。俺は後ずさりして自分の家に戻りたかったが、さっきから彼女がにじり寄ってくるせいで、デッキにあがり、家のリビングの中まで来てしまっていた。

「私のことを好きってほんと?」

 彼女の口調は可愛らしかったが、俺はもう、うんと言う気にはなれなかった。

「親父の様子を見に行かないと」自分の家のほうを気にするそぶりをした。「親父のことは俺しか面倒をみてあげる人間がいないんでね」

 逃げ腰になったのを、彼女は敏感に感じ取ったようだ。俺の腕を摑むと「私のことが好きなら、あなた私と同じ気持ちを味わってみて」と言った。

「同じ気持ち?」

「あなたも私と同じ、家族を失う気持ちを味わって」

 俺は自分が出過ぎた真似をしたのだ、ととっくに気づいていた。もはや謝っても許されないほど彼女の逆鱗に触れてしまったのだ。彼女は混乱しとる。でも俺は口笛でも吹けそうな笑顔をまだ崩すわけにはいかなかった。

「失うって? 親父を殺すことなんてできん」

「違うわ。殺すよりも、もっと私と同じ気持ちになるの」。彼女は俺の動きを片手で完全に止めていた。「あなたが、誘惑するのよ」

「俺が、俺の親父を─」。何を考えとるんだ。

「私を理解したいんでしょ」。彼女は言い切った。「そうすれば、私のことが分かる」

 切実な口調。分かってあげたいという気持ちに噓偽りはなかったが、あの老いぼれを誘惑するなんて真似はできん。想像しただけでも、喉に酸っぱい胃液がせり上がってくる。

「私がお父さんを誘惑したことはお母さん以外、誰も気づかなかった。お父さんでさえ。お父さんは自分が私の一生を駄目にしてしまったと後悔して、私はその後悔を利用して、これからもずっとお父さんと夫婦みたいに暮らしていくつもりだった。お母さんも法的に近づけないし、私が悪い子供だということは、このまま一生世間の目を欺いて隠し通せる。そう思ってた。

「でも、それは違った。私の間違いだった。やがてこれが始まった。初めは髪の毛から。変化が始まって、根元のほうから段々とピンク色に染まり出したの。何度染めても無駄だった。次の日にはまた元よりずっと濃いピンクに戻ってる。それだけじゃない。

「髪がすむと、今度は瞳だった。鏡を見るたびに色が抜け落ちて、人形みたいなエメラルドグリーンになった。そして弟。さっき私とお父さんの子と言ったけど、私たちは一人目の弟にしか心当たりはない。あとの四人はまったく身に覚えがない。ただお父さんと暮らしているだけなのに、どんどん私のお腹は膨らんで、悪阻つわりや陣痛が拷問のように続いた。生まれるとき、彼らはいつも頭をつっかからせて私をうんと苦しめた。何度も失敗して、駄目だった子もいる。

「私は、これがうすうすどういうことか分かり始めていた。世間は騙せても、私がお父さんにしたことを許さない存在について、考えないわけにはいかなかった。今まで一度も、そんなものがいるなんて思ったことはなかったのよ。

「もう私はこの突拍子もない姿のせいで、どこにも出歩けない。初めの頃は引越を繰り返したけど、そのたびにまた一人妊娠してしまうし、私たちは新しい街に家を買って、もうどこにも行かないと決めたの。この街に来て、永遠に続くかと思った妊娠はやっと終わった。許してもらえたのかもしれないと、私とお父さんはようやく胸をなで下ろした。

「でも変化は、まだ残ってたの。分かるでしょ?」

 彼女に聞かれて、俺は思い当たることをそのまま口にした。「涙?」

「そう」彼女は俺の腕を摑んだまま頷いた。「私は、血の涙を流すようになった」

 これは何かの悪ふざけなんだろうか。でももう俺の頭はこんがらがって、一体何がどこまで少女の噓なのか分からん。彼女の何が他の女とは違うのかも。女は最初から自分とは全然別の生き物だと思っとる。俺は彼女の手をほどこうとした。彼女は放さなかった。まるで何もかも打ち明けて、楽になろうとしてるみたいに。彼女がまだ何か話そうとするので、我慢ができなかった。俺は腕を摑んでいる彼女の腹を思いきり蹴り飛ばすと、体をめちゃくちゃに動かして庭に転がりながら飛び降りた。暗い闇のほうへ手足を動かした。

「自分の父親を誘惑して!」。彼女の声が聞こえた。「そうすれば、私の孤独が分かる!」


 自分の家のほうへ走ったつもりだったのに、そこはいつも悪の組織が去っていく彼女の家の裏の林で、俺はいつまで経ってもそこから抜け出すことができんかった。こんなに広いはずがない。「親父! 親父!」。俺は何度も叫んだが、どこにも届かんのか、誰も助けにきてくれる気配はなかった。俺は携帯も持っとらん。ふと足を止めると、土の盛り上がってる箇所が数えきれないほどあって、彼女たちが毎日殺していた組織の人間を埋めた跡らしいと気付いた。マントやマスクがいくつも転がっとる。もう少し先へ行くと、ひっそりとした場所に五つの墓があった。さらに歩くと、自分の家の灯りをやっと見つけた。俺は部屋に戻り、怪しまれんように静かに布団に入った。次の昼、食事を運んで来た親父を見るなり、俺は昨日の晩のことを思い出して、親父の作ったものを食べる気にもならんかった。胸糞悪くて、喋る気もせん。

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