嵐のピクニック (講談社文庫)

本谷有希子



 試着室に入った以上、出て来ないはずがなかった。

 だってあの中には絨毯と、鏡しかないはずなんだし。

 でもそのお客様はすでに三時間以上、入ったきりだった。

 何をしてるのかって? もちろんうちの店の服を試着し続けているのだ。昼からずっと。カーテンの奥に向かって「いかがですか?」と声を掛けると、すぐに中から「あ、今着替えてます」という返事が返って来る。私たちはそう言われてしまうと、しばらく声をかけ直すことができなくなる。だってまた「あ、今着替えてます」と言われた場合、急かしているみたいで気まずくなってしまうし、おそらくその答えには「私には私のペースがあるんだから構わないでよ」という非難が含まれているからだ。

 試着室からお客様が出て来ない理由として、本当はもうとっくに着ているけど、どうしようもなくその服が似合わなかった場合が考えられる。私にも経験があるけど、着た瞬間、鏡を割りたくなるほどみじめな気分になる服というのは存在するのだ。鏡の中に立ちすくむ自分が、驚いた顔でこっちを見ている。噓でしょ、私ってもしかしてずっとピエロだったのかもしれない。それまでの人生すべてが恥の塊だったことに気付いて、膝が震えるような服。

 最初、きっとそうなんだと思った。うちのお店はオーナーが海外で買い付けて来る少し個性的なハイブランドばかり取り扱っているから、着替えても外の大きな鏡の前に立つことを躊躇うお客様も多い。お値段も決して安くはないし、そういうときは無理に声をかけず、中でじっくり吟味してもらうことにしている。だから私はレジを打ったり在庫を確認したりしながら、このお客様に声をかけるタイミングもできるだけ遅らせていたのだ。でもあまりにも長い。

 堪えきれず、「何かございましたか?」と思い切ってカーテン越しに尋ねてみた。

「何もないです。大丈夫」とその人は少し不機嫌そうな声で答えた。「それより、このワンピースよりもう少しカジュアルなものはないの? ちょっとこれだとパーティっぽすぎて、着ていく場所を選ぶっていうか」

 でしたら、と私は水彩のような淡いプリントの入ったシルクのワンピースを持って来た。こちらはパリのファッションブランドで、プリントものが多いんですけど、どれも発色が上品でキレイなんですよ。私がごく簡単な説明をすると、彼女はカーテンの向こうから手だけを伸ばしてハンガーを奪うように引っ張り込んだ。そしてまた時間をかけて、ごそごそと着替え続けている。どうしようか迷ったけど、私は気長に待つことにした。うちの店は基本的に一人のお客様につき一人の店員が対応するという方針なのだ。着こなすのが難しい服も多いから、一人一人と丁寧にコミュニケーションを取りながら、その人に一番似合うスタイリングを見つけていく。

 そのためには、まずどんな人なのか知らないことには始まらなかった。何歳くらいなんだろう。背の高さは? 雰囲気は? 実際のところ、常連のお客様に紅茶を出しているあいだにいつのまにか店に入って来ていて、私は「これ、試着していいですか」とカーテンを閉める彼女の手しか見ていないのだ。

「お客様。いつもワンピースはどのくらいのサイズのものを着てらっしゃいますか」

「忘れた。そんなこといちいち覚えてない」

 彼女はものすごくシャイで、勇気を振り絞って雑誌か何かで見かけたこのセレクトショップに来てくれたのかもしれない。でもたとえば太っているとか背が低いというコンプレックスのせいでやっぱり自分の姿を私たちに見せる勇気は出なくて、試着室を出るタイミングを逃してしまったのかもしれない。

「お客様。普段はパンツスタイルが多いですか。それともスカートでいらっしゃいます?」

「スカートでらっしゃるときもありますし、パンツでらっしゃるときもあります」

 でももしかしたら整形手術をしたばかりで着替えている最中に顔が崩れたのかもしれない。時間を稼いで、シリコンの位置を一生懸命直している最中かもしれない。そういえば子供の頃、海外旅行中の女性が試着室から消えてしまったという噂を聞いたことがある。試着室の床が落とし穴みたいに開いて、そのまま人買いに売られてしまう話だ。その話をしたら、彼女は怖がって出て来るだろうか。案外、そういう接客は気が利いてるかもしれない。「外の大きな鏡の前にどうぞ」と言うより、よっぽど角が立たないかも。

「今日はお仕事帰りか何かですか」

「そんなこと、洋服選びに関係あるの?」

 試着室という場所でみじめな思いをした女が、店員に恨みを晴らそうとして出没しているとか。夜道で後ろからハイヒールの靴音が聞こえると、私は体がすくみそうになる。お客様が何を試着しても「かわいい!」とか「すごくお似合いですね」と言い続けている後ろめたさからくるものだろう。

 夜八時の閉店時間になっても彼女は出て来なかった。何度かお声掛けしてみたけど、無駄だった。試着室のカーテンをあけるわけにもいかないし、私は「ごゆっくりどうぞ」と待つことしかできなかった。お客様はごそごそごそごそと動いては、時折「あぁもう」とか「んー」とか呟いている。彼女はサイズ違いや色違いもすべて次々に持って来てほしいと言った。言われた商品を探して、店の倉庫を駆けずり回るうち、こんなに熱心に服を選んでどこに出掛ける予定なんだろう、と彼女の事情が気になってきた。私は店長から店の鍵を預かった。他のスタッフが全員帰ったあとも、お客様に服を選んでもらうことにしたのだ。うちの店はお得意さまから連絡があれば、どんな時間でもそのお客様を担当しているスタッフが駆けつけるから、夜遅くまでたった一人のために営業することも珍しくない。

 日付が変わる頃、彼女は店と倉庫にあったすべての商品を試着し終えた。どの服に決めるんだろう。ついに試着室から出て来るお客様のために、私はソファで紅茶を用意していた。しかし私服姿に着替えた彼女がカーテンから出て来ることはなかった。代わりに、聞こえて来たのは「一番最初に試着した服をもう一度着たい」という声。彼女はそのまますべてもう一度着直したいと言い出した。私の体力は午前三時までしかもたなかった。

 朝、私が店のソファで目が覚めたとき─お客様は、まだ試着室にいた。あれからずっと洋服を選んでいたのだ! なんて不器用な人! 彼女のことが少しずつ愛おしくなって来た。私は急いで朝六時からやっている近所のベーカリーまで走って、買って来たベーグルとカフェオレを「よかったらどうぞ」とカーテンの下に置いた。お客様は何も言わなかったけど、いつのまにか袋がなくなっていたから、中で食べてくれているみたいだった。

 私は化粧を直し、他のスタッフがやってくる前に店のロッカーに置きっぱなしだった服に着替えた。「まさか昨日のお客様ですか」とみんな驚いたけど、「そうなの。朝一番に店を開けてほしいと頼まれて」と説明すると、誰もそれ以上は詮索しないでくれた。昼前には店の倉庫から持って来た服もすべて二回試着し尽くしたけど、彼女はまだ納得がいかないみたいだった。私は一番近いファストファッションの店まで車を飛ばして、彼女のために何十着も購入した。うちの店にもお客様が数人来たけど、他のスタッフが対応してくれたし、試着室があと二つあるお陰もあって、誰もその奇妙なお客様には気づかないみたいだった。

 でも買って来たどの服も彼女は気に入らないと言うので、私はとうとう試着室ごと他の洋服屋に連れて行くことにした。うちの店の試着室は、オーナーが店内の模様替えを定期的にしたいと言うので、タイヤ付で移動ができるようになっていることを思い出したのだ。

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